佐村河内守の交響曲第1番「HIROSIMA」2013/04/05 17:43

佐村河内守の交響曲第1番「HIROSIMA」

NHKの特集番組をたまたま見て興味を持って早速amazonに注文した。
佐村河内と言えば、バイオハザードや様々なゲームシーンのおどろおどろしい音楽の作曲者として、認識していた。
しかし、今回の彼のシンフォニーを聴いて、正統派の作曲技法を踏まえた作曲家であると認識した。
彼の聴覚はほとんど失われており、楽器を使わずにこれだけの大曲を作曲したというところに驚きを覚える。
健常者でも、このレベルの作品を作曲できる人が日本に果たしているだろうか。それがハンディを克服してこれだけの複雑な音響の作品を描けるとはなんと素晴らしいことだろうか。

作品は、3楽章形式。

第1楽章

導入部のリズム動機は、シンコペーションで、この辺りは、山田耕筰の「勝ちどきと平和」や「曼荼羅の花」等にも似ている。西洋の作曲家では、アランホバネスもこの様な導入技法を用いる。
このシンコペーションの動機が徐々に積み重ねって来て多層の混沌と不安の空気を作り上げていく。
第2主題は、明確な旋律性を持った嘆きの歌である。これがシンコペーションにかき消されて、悲劇が始まる。
様々なモチーフの導入部に打楽器が用いられるのは、リヒャルトシュトラウスのやり方だ。混沌が盛り上がって、第2主題が拡張された悲劇の主題提示がfffで提示される辺りは、ブルックナーの模倣だろうか。
音楽の進行は、和声よりも旋律が優先しているのは、ブルックナーよりも、マーラーやショスターコビッチを想起させる。和声の進行は実に巧みである。
十字架のテーマが出てくる。これは、バッハのフーガの技法、或いは、シェーンベルクの主題と変奏等と同様のテーマである。
かれらは、数学的というか有機的にこの十字架のテーマを発展させていくが、佐村河内は、これをむしろ情念を放散させる形で発展させていく。この点は、まさにあの大楽聖ベートーヴェンの手法でもある。上昇音型に高貴さをもたせるやり方。
そうそう、この作品の主題は、「暗黒から光明へ」というまさにベートーヴェンが交響曲を踏襲している。
管弦楽の構成は3管編成であり、マーラーやブルックナーに比べると比較的小規模であるが、打楽器や低音楽器を重点的に響かせるので相対的に分厚い響きである。

第2楽章

速度はアンダンテである。
第1楽章で絶望の暗さに奈落の底に落とされた後、この楽章も漆黒の闇の中にある。
その中で、一筋の希望をつなげている祈りについて描かれている。ショスターコビッチの第5番の第3楽章を想起させられる。後半のトロンボーンによるコラールの演奏は、効果的である。この辺りは、やはりブルックナー等の作品に似ているのか。しかし、中世のキリスト教音楽の旋法や5度音程が示される辺り、もっと古い音楽を志向しているのかもしれない。この楽章もCDでは、20分は続く、いくつかの場面の繋ぎ合わせであるが、残念なのは、マーラーやブルックナーでもシーン毎に作曲してつなぎ合わせて一つの楽章にまとめていくのだが、その接続部が十分に機能していないので、ちぐはぐな印象がぬぐいきれない。そうした不満足感は、フルトヴェングラーの交響曲第3番のラルゴ楽章にもみられる。

第3楽章

これも混沌とした導入部である。第1楽章の続きの様な感じ。ここでもシンコペーションのリズムが導入部であるが、これを回転する様な弦楽合奏が支えて不安な緊張を盛り上げていく。様々な打楽器や特殊楽器も登場。この楽章が一番佐村河内の本領が発揮されたような。でもゲーム音楽にも聞こえてしまうのは偏見だろうか。
 再び十字架音型がファゴットで歌い上げられてから、混沌は徐々に晴れ上がりをみせ始める。
 短調から長調に色調を徐々に変えていく技法、これは、たとえば、ベートーヴェンの運命のスケルツォ楽章から終楽章への移行部の様な役割を果たしているが、この曲の場合は、そんなに単純ではない。
 いくつもコラールがクラリネット等で繰り返される行程を経て徐々に希望の光が差し始めるといった感じか。
 マーラーの巨人の序奏部にみられるフラジオレットがずっと鳴り響いた後、突如フガートが始まる。ヴァイオリンから徐々にに低音楽器に主題が移っていく。この辺りは、チャイコフスキーのロミオとジュリエットのやり方だ。似たようなクラリネットの旋律が入ってくる。
 その後、再び十字音型が入ってくるが、一部の音程が変えられており、徐々に調声は明るさを持つようになっていく。
 つまり、この作品ではベートーヴェンの様に突如、光明が射すのではなくて、様々な音型の積み重ねを経て「光の生成」を紡いでいく。再び嵐となり、猛烈な打楽器の暴威が繰り広げられる。

 トランペットが再び十字音型を吹き始めて、それが発展して長調のファンファーレに変わる。この辺りは、フルトヴェングラーの交響曲第2番のフィナーレを踏襲しているのだろうか。特にコラールが奏される伴奏にシンバルがなるところ等は、実に類似している。更に、頂点でトランペットが旋律を奏でるところは、ショスターコビッチがまた登場する。ゼクエンツの後の救いと慰めの音楽は、ほとんどマーラーの交響曲第3番のアダージョ楽章そのもの。

 こうしてみると佐村河内の第1番は、実にベートーヴェン、ブルックナー、マーラー、リヒャルトシュトラウス、フルトヴェングラーの作品の影響を強く受けているというよりも、集大成を目指していることが伺える。
オタク的ともいえないことはないが、これだけの作品、たとえば、フルトヴェングラーの第3番交響曲よりもずっと内容的にも構成的にも優れているこの作品を聴覚障害者の東洋人の作曲家が作り上げたというところに偉大さを感じざるを得ない。

 今後、交響曲第2番とか作曲するのだろうか。その場合には、第1番でみられたいくつかの作品を模倣するやり方は、もはや通用しない。本当の独創性が問われることになる。でも、僕は、それを大いに期待している。そうなれば、本当にこの日本においてシンフォニストの巨匠が誕生したことになるからだ。

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