5.道の学問2009/08/21 21:22

5.道の学問

ここでいう「道」とは中国の道教の「道」ではない。しかし、果たして、「神道」の「道」だろうか、それも違うだろう。宣長の思想が「神道」の思想そのものではない。「神道」の思想によりながらも、独自の方向性を提唱しており、それがユニークなのである。

こうした思想を「古道」という。

①さて、その主としてよるべきすぢは、何れぞといへば、道の学問なり。

さて、その中心としてよるべきすぢ(分野)がなんであるかと言えば、道の学問である。
 いよいよ、本題に入って来たが、宣長の教えを古道(ふることのみち)とする考え方は、宣長自身が提唱したものであることが判る。

②そもそも此道は、天照大神の道にして、天皇の天下をしろしめす道、四海万国にゆきわたるまことの道なるが、ひとり皇国に伝はれるを、其道はいかなるさまの道ぞといふに、此道は、古事記・書記の二典に記されたる、神代・上代のもろもろの事跡のうへに備はりたり。此二典の上代の巻々をくりかへしくりかへしよくよみ見るべし。

 ここでは、中心となるテキストとしては、古事記・日本書記の特に神代、上代巻を中心に繰り返し、精読することであると述べている。「道」であっても、その寄る辺とすべきは、テキスト(文献)なのであり、これは、どんな人文学でも、テキスト(本文)が基本であると述べている。

 宣長の時代には、古事記や日本書紀が初学者にも容易に入手出来る様になっていたことが判る。

③又、初学の輩は、宣長が著したる神代正語を数十遍よみて、その古語のやうを口なれ知り、又、直日のみたま・玉矛百首・玉くしげ・葛花などやうの物を入学のはじめより、かの二典と相まじへて読むべし。

 しかし、テキストだけでは、なかなか馴染み難いことであるから、宣長の著した注釈書は、二典に比べて判りやすく書かれているので、なんどもなんども繰りかえして読むことで、古代の言葉遣いになれることが出来る。

 恥ずかしながら、宣長の書物としては、直日のみたま、玉くしげは読んだが、それ以外の書物については、読んでいないで、ここでどうのこうのと述べる資格は私にはない。

 古典の学習者では、現代の高校生や大学生でもそうだが、現代語訳を中心を読んでしまいがちである。ところが、原典を何度も何度も繰りかえして読んでいれば、自ずからその言葉遣いになれて意味も、頭からではなくて心から理解出来る様になる。

 これが、「道」であるというのだろうか。

 宣長の注釈書は、江戸時代の学習者が上代語に馴染みやすい様に記されているので、学習・理解の助けになるのである。

④然せば、二典の事跡に道の具備はれることも、道の大むねも、大抵に合点ゆくべし。
 
 この様な学習過程を経て、「道」の理解につながっていくのである。

⑤又、件の書どもを早くよまば、やまとたましひよく堅固まりて、漢意におちいらぬ衛にもよかるべき也。道を学ばんと志すともがらは、第一に漢意・儒意を清く濯ぎ去りて、やまと魂をかたくする事を要とすべし。

 大和魂を「言葉」として理解するのではなくて、「魂」・「心意」として理解する為に、この様な精読の学習を重ねるのである。

 そうして、漢意(からごころ、仏典やそういったもの全てが漢文で書かれているが、単に漢文が書かれている文献という意味ではなくて、本来は日本にはなかった価値観が固有文化として定着してしまっていることに目覚めるべきであると言いたいのだろう。)、儒意(幼い時から儒学によって固められた偏見)の全てを取り去ることで、ようやく日本人本来の心である「大和魂」が見えてくるという。

 確かに古事記は、漢文的な表現もみられるが、その表現したい意図は、神代・上代の日本人が持っていたとされる純粋な心を感じ取ることが出来る。しかし、日本書記はどうだろうか。文法、表記を含めて中国文化の影響を強く受けている事実は否めない。
 この辺りの宣長の考え方に限界を感じるのである。
 
 この講談社文庫の注釈者白石良夫氏は、「宣長は戦略的に漢意(からごろころ)という言葉を使ったのである。」とされている。つまり、自説の独自性・存在価値を示す為には、従来・既存の学問とは、対立的な姿勢を鮮明を示す必要があった為であるとされている。私もその通りである思う。

 こうした宣長の「戦略」に反感を持ったのが、あの上田秋成だと思う。秋成の姿勢は、古典の解釈、研究からあらたな「道」を見いだすというのではなくて、ただ、正しく素直に記紀万葉の意味を読み取って、感じれれば良いという考え方なのだろう。

 そうして、宣長が注釈書や研究書を数多く著したのとは対照的に、中国や日本の古典に題材を求めたオリジナルの作品を創作することで存在価値を主張しているのだと私は思う。


 図は鈴屋の間取図である。家ばかり探しているとこうしたものに目がいってしまう。医院であったこともあり、結構、敷地一杯に無駄なく作られているし、それでも坪庭が配置してあり、きっと心が安まる家であったのだろう。

 詳しく間取り図を辿っていくと、なんと、「佛壇」があるではないか。漢意を廃したと言いながらも、「佛壇」が設えてある。
 学問的には、大和魂を主張しながらも、生活文化にまでは浸透させることが出来なかったのだろうか。

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