6.道をしるべき学び2009/08/30 21:53

①さて、かの二典の内につきても、道をしらんためには、殊に古事記をさきとすべし。

 古事記、日本書紀の内、道を知ろうとすれば、特に古事記を優先して欲しい。

 古事記や日本書紀を文学書や歴史書としてみる学びのあり方は、特に戦後から20世紀中まで続いた研究姿勢であった。単なる研究資料としての位置づけとしての取り組みは、歴史文献学としては、何らかの成果は挙がっただろうか。 結局、問題となったのは、文学の面では、記紀歌謡と万葉集との関連、これらの作品が現代の我々に何を伝えようとしていたかと言った研究よりも、訓解や、注釈が中心であり、古註を和洗い直して、(現代的)な理解、解釈との齟齬に大部分の研究労力が費やされたのであった。これは、戦前の国粋主義的な考え方への反省でもあったが、不毛の時代が長く続いたといって良いだろう。

 ようやく、21世紀に入って、古事記や日本書紀、そして、万葉集がどの様な「意」(心)で書かれ、我々に何を伝えようとしているかを真剣に考える思潮が今、ここに蘇生したのだと思う。
 「意」をしること、これすなはち「道」である。


②書記をよむには、大きに心得あり。文のままに解しては、いたく古(いにしへ)の意(こころ)にたがふこと有りて、かならず漢意(からごころ)に落ち入るべし。

 日本書記を読むには、大いにその心得が必要なのである。漢文のまま理解しようとすれば、古代の人たちが私たちに伝えようとして「意」と異なった理解に陥ってしまうのである。

 現代の日本書記の研究の立場、中国語の文法や表記、発音等の立場から分析を試みようとする研究者と、「意」の理解を重んじようとする立場とに大きく分かれ、深く対立している。
 それは、古代日本語学等にまで、範囲を広げて対立に及んでいる。
 まったく、宣長の時代とは変わっていない。日本書紀が、日本に渡来した大陸系の人たちが記述したのか、漢文法を学んだ日本人の創作なのかといった点の研究がコンピュータ解析を含めて行われている。
 こうした研究法は、主に、「分巻論」の研究で用いられているが、私は、源氏物語の研究にも応用を試みた。
 しかし、何も得られなかった。そこには、物語に書かれた「意」を理解しようとする観点が欠けていた為である。

④次に古語拾遺、やや後の物にはあれども、二典のたすけとなる事ども多し。早くよむべし。

 佛教大学の卒業研究のガイドブックで、国文学の欄で、U先生が平安文学を担当されて執筆されているが、平安文学の範囲で『古語拾遺』は、平安時代に入るが、内容的には、上代文学と書かれているが、それは、宣長も同様のことを述べている訳である。齋部広也成が大同2年(807年)に編纂した書物であり、平安遷都直後の作品である。
 齋部氏は、天太玉命の子孫とされ、彼の祖神は、天照大神の岩戸隠れの時に、中心的な役割を果たされているという。
 齋部氏の独自の神世から伝わる伝承に加えて、古事記、日本書紀が編纂された時にどの様な「意」が重んじられたかを知ることができる比較的近い時代の資料でもある。
 ところが、津田左右吉が『古語拾遺の研究』で、その史料価値はほとんど見いだせないと述べているのである。
 現代では、むしろ、近い時代の独自資料として再評価されており、それは、宣長の考え方に通じるものがある。

 ところで1773年(安永2年)に奈佐勝皋という人物が『擬齋』という書物を書いており、津田と同様に否定的な言葉をしるしている。『うひ山ぶみ』で、この奈佐の『擬齋』に対して、反対の立場を表明しているのである。

⑤次に万葉集。これは歌の集なれども、道をしるに、甚だ緊要の書なり。殊によく学ぶべし。その子細は下に委しく(くわしく)いふべし。まづ道をしるべき学びは、大抵上件の書ども也。

 「意」を知るには、「歌」の理解も当然必要で、「道」を知ることにつながってくるのである。万葉集にも古い時代の歌が含まれているが、やはり、古事記の神代巻の歌謡の方が、より「意」を伝えているのではないだろうか。

 また、近世に編纂された琉球國の『おもろそうし』にも古態を思わせる歌謡がいくつか収載されている。それは、「歌」の意味もあるが、「かみよのことば」がどの様に用いられていたかの手がかりを得ることができるのである。

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