平重衡と法然との有名な対面の場面2010/02/09 21:09

 「法然を語る ⑩」

 大分前に放送されたが、未だに印象に残っている。


 しかし、印象に残っているが、⑨に比べて内容が良いからではない。⑩の内容はむしろ退屈であった。

 平重衡と法然との有名な対面の場面について述べられた。

 法然は、重衡が生涯の罪について語るのを聞いて、涙に暮れたのだが、それでも、浄土に行きたい一心で、悪心を棄て善心を起こされたようとしたことは良いことだし、一心に念仏を唱えることで、極楽浄土へきっと行けるでしょうと述べた。

 この重衡との出逢いの描写は実に重要である。何故ならば、法然は、殆ど自著を残していないし、選択抄をみてもあくまでも理論書であり、法然の「生の言葉」をここで聞き取ることは出来ないから。

 佛大のスクーリングでたしか江戸の大きな浄土宗寺院の住職様の授業を受けることが出来たが、その時に法然上人の書翰を示されて、それを授業で読まれたが、その時、初めて法然の生の言葉に触れることが出来た。

 平家物語というフィクションとノンフィクションとの狭間の作品の中での法然と重衡の対座と対談。しかし、そこには、法然の生きた姿をみることが出きる様な気がする。

 選択念仏が実際には、どの様に説かれたかを知ることは、実際にはかなり難しい。

 「法然を語る」の講師の町田宗鳳先生は、キリスト教の四身一体についての考え方を述べられた。

 「善の対局としての悪の概念があって初めて、浄土に向かう道が開ける。」ということであるが、どうなんだろう。この善と悪の対局の中で、往生念仏のあり方を考えられたのは、法然ではなくて、お弟子の親鸞さんの様な気がするのだが。

 だから、この人は、法然のお弟子さんの親鸞の教えの方に傾いている様に思われる。

 法然は、善の対局の悪とかそういった概念には注目してはおらないと思う。もっと、単純であり、ずっと子供の様に純粋であったのだ。

 たしかに悪行の話は聞くだに惨いし、悲しいことであるが、実は、そんなことはどうでも良いのが法然上人の姿勢であり、だから、覚られたのである。

 一心に念仏を唱えれば、善行・悪行の区別なく極楽往生が適うというのが、その教えであり、「必ず往生するぞ。」という素直かつ素朴な心がけと簡単で実は難しい称名念仏の実践こそが重要なのである。

 しかし、どうなんだろう。例えば、法然上人の生涯を描いた絵巻や極楽往生を遂げた名僧伝を読むことが多いが、百万回の念仏を唱えたとか、念仏の回数、ノルマを達成することにとらわれている例が多い。

 大体、1万回でも念仏を唱えてみれば判ることがだが、回数を記録すること自体が大変。念珠はその為にあるというが、正確な記録は無理であるし、そういった時にとらわれている人って、念仏の回数のみにとらわれて、極楽往生しようという意志が忘れられているのではないだろうか。

 死ぬまでに、最後に、佛大で、浄土コースに学びたいと思うが、その解決すべき題目としては、次の4点に集約される。

①観想念仏と称名念仏との違い。
②専修念仏の修行の実践は、本当に法然上人の教えに適っているのか。
③浄土教における聖と悪の位置づけと法然浄土教の場合はどの様に定義されているのか。
④極楽往生が究極の目的とされているが、人は何故、極楽往生を遂げなければならないのか。

 この4点が私にとっては、本当に判らないことなので、佛大の偉い先生方に教えていただけるのであれば、それは、本当にありがたいことだと思う。

 30代の終わり頃、初冬の富士山の岩室に1週間、籠もって、様々な瞑想や観想を通じて、私は、過去や現在、未来の世界を自由に行き来できる様になった。(あくまでも想念の世界だが)

 そこには、極楽往生への道を辿る多くの人達、私のご先祖や祖母の姿、あるいは、悲惨の事故が大勢が無くなって、その人達の姿も見える。遠くかなたの紫色の世界である。

 実は、もうすぐ往生する人の様子もみることが出来るのだ。

 とおくかなたには、仏なのか高貴な人の姿もみることが出来る。

 今、毎日、山の端に沈む夕陽を静かな自然の中に眺められて、日想観が身近に実践できる家に棲むことが出来る様になって幸せである。

 こうして、僕は、法然上人の鋭い感受性や純粋で素直な生き方や心に、彼の「言葉」を通じて、強く感動しているのである。