明惠上人にとっては、夢は現実の精神世界の延長であり、実経験2010/04/21 23:19

 日本霊異記が新調古典集成本しかないので、文庫本を求めに三宮のジュンク堂に出かけた。

 講談社学術文庫しかなくて、値段も高いので止めた。

 換わりに岩波文庫の明惠上人集を買ってしまった。(もう給料日前でお金がないのに)

 TV番組「法然を語る」で、法然のライバルとして登場したあの明惠上人である。

 前半は、明惠上人の歌集で、これも独特の感性があって、栂尾の四季の風景が描けており面白い。松林を詠んだ和歌等は、おうぶの里の松林を彷彿とさせるものもあり、共感出来た。

 さすがにお坊さんだけあって涼しげな歌が多く、釈経歌等の抹香臭い歌は案外少ない。

 後半の「明惠上人夢記」が、傑作で実に面白い。この人は、夢の世界も現実の世界も同様の価値観で事実として認識しているので、同じ視点で日記に書いている。

 すなわち子規の日記では、日常体験やあの六尺の病室から現実視したことや友人から聞いたことしか日記には記述しておらず、夢の話は殆どないのでは。

 漱石の夢十夜は文学作品で、かれは、創作イメージとして、夢を感じている。

 でも明惠上人にとっては、夢は現実の精神世界の延長であり、実経験なので、それだけ日記に書いている重みもある。

 中世文化人にとって、「夢」の位置づけは現代人よりもずっと大きい。それは、フロイト的な価値観ではなく、「潜在意識」ではなくて、「顕在意識」として把握される。

 「感得」とは単なるスピリチュアルな体験ではなくて、実際経験と同じ意味合いを持っている。

 藤原定家も夢の歌を良く詠んでいる。中世人にとって、夢は、現実的なものの一部であったのだ。

 法然上人の場合も絵伝には、善導の姿をみたとか出てくるが、それは、弟子が伝えたことで、消息文等にみる実際の上人の言動は、夢よりも現実を直視している。

 どちらが中世の文化人として一般的であるか考えると、明惠の方が一般的で法然の方が変わっている。

 現実主義の考えかたは、それだけ時代から突出していた訳。

 石崎入道という人の前にどうゆう訳か海があり、そこに一角獣がいるという夢は素晴らしいと思う。

 僕も家の庭の池が海に変わって、そこに鯨が泳いでいる夢をみたことがある。

 まぁ、いろいろ面白いことが書いてあるので、これから読むのが楽しみだ。