北野天神絵巻成立論(未来記との関係において)2008/03/30 22:44

 北野天神絵巻成立論仮説(六道めぐり絵→日蔵上人→未来記→宝誌和尚観音化現のつながり)

 祟り・怨霊と言えば、北野天神絵巻であるが、第1~4巻が菅公伝、第5~8巻が怨霊譚、第7~8巻が日蔵六道絵巻、第9巻は白描で下絵で終わっている。
 この絵巻の成立を考える上で、最大の問題点は、何よりも不思議なのは、道真の怨霊とそれ程関係の無いように見える日蔵上人の六道巡りの巻が最後に置かれている点である。
 ここでは、あくまでも私説としてこれまで誰も考えた事がない仮説を述べてみよう。
 前回取りあげた『中世日本の予言書』(小峯和明著岩波新書)が大きなヒントになる。
 さて、冒頭に書いた日蔵上人については平安中期の伝説的な僧で、三善清行の弟と伝えられている。941年に金峰山で修行中に息絶える。あの世で日本太政威徳天となった菅原道真公と出逢い、家来の邪神らにより、醍醐天皇が死んで地獄に落ちたと伝えられ、冥界で醍醐天皇に会った後、13日後に蘇生したという逸話が残されている。
http://denki.art.coocan.jp/pukiwiki/?%C6%FC%C2%A2%BE%E5%BF%CD
 この絵巻が描かれたのが、13世紀前半である事に注目したい。
 先に挙げた未来記が成立していた時代とほぼ同時代に当たるからだ。
 異界にいる貴人の怨霊と出あい怨霊達の話を聞いて、歴史の裏の真相を知り、未来が語られるというパターンは、この北野縁起絵巻にも当て嵌まり、この絵巻が完成していたら、それは、怨霊史観に基づく「未来記絵巻」として完成していたのではないか。
 「未来記絵巻」が描かれる事で、怨霊達の供養と未来の安寧を願い、利益を得たいという意思・目的からこの絵巻が創作されたともとれる。
 日蔵上人の逸話は、恐らく、こうした未来記のベースとなった幾つかの説話の中で1つであったのだと思う。
 中世の説話は、共通の話形を持った説話が複数存在することが大きな特色であるが、日蔵上人に似た人物として、小峯氏の『中世日本の予言書』にも取りあげられている宝誌和尚という人物に源流を求める事が出来るのではないだろうか。
 宝誌和尚(418-514)は、中国六朝時代の梁の国に実在した人物で箴言・予言僧として知られた人物である。
 この中で、特筆すべきは、「水陸会」と呼ばれる仏事が存在する事である。これは、日本でも行われている盂蘭盆会の施餓鬼供養にもつながっているらしいが、梁の武帝の夢に神僧が影向し、六道救済の為の「水陸大斉」を行う事を要請したが、誰もその法を知らず、一人、宝誌和尚のみがその方法を知っていたので、彼の指図で始められたと伝えられている。
 現在、新知恩院に残っている六道絵は、実は、水陸大斉の模様を描いたのだとの説もある。
 宝誌和尚は、また、観音が化現したという説話も伝えられており、その像としては、西往寺にある宝誌和尚木像が有名である。
 実に不気味であり、怪奇漫画のモデルになった程。和尚の顔が割れて、観音の顔が洗われているが、これは、これらの説話がもとになっている。
 観音信仰と共に宝誌和尚の六道めぐりの説話は、13世紀には、各地で流布していたと見られる。
 こうした説話・話形が日蔵上人の六道めぐりと醍醐天皇の怨霊譚として絵巻物に描かれる様になったと見られる。
 怨霊鎮めの祈祷として、この未来記が描かれる際に、宝誌和尚の説話は大きな役割を果たしたと考えられる。
 天神は雷神として、恐ろしい祟りをなすが、一方で、農耕に恵みの雨をもたらす。また、観音菩薩も化現仏として、現世利益と未来の安寧への祈りが込められている。
 未来記を絵巻に描くことは、怨霊・怨霊史観のマイナス面のみならず、そういった現世の人々の為を思って描かれたのである。

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