『日本の下層社会』(横山源之介著 岩波文庫)2008/09/06 09:42

『日本の下層社会』(横山源之介著 岩波文庫)

 高校日本史の教科書の近代史部門でよく取りあげられている本だが、偏見に満ちた扱われ方がされている。

 この本は、「貧乏人への同情、憐れみの書ではない。」

 つまり、19世紀のフェビアン協会等にみられる社会現実のイメージ的な把握ではないということだ。

 「下層社会」と「下流社会」と、混同されがちだが、「下層」とは、当時の社会秩序の中で、ブルジョアジーに奉仕する労働者階級全般を意味している。

 「下流」は、最近の流行の言葉であるが、これは、階層のことを示しておらず、生活文化のスタイルのことを示している。

 「文化」は、文学(人文学)での「文化」の概念と、社会学のそれとでは、全く、コンセプトが違うことに注意する必要がある。

 社会学のいう文化とは、「生活様式」であり、「生活環境」によって決定づけられる。人文学では、外部からの観察によって文化を規定するが、社会学の文化は、何らかの外部要因を受けて、「自律発生的な生活様式」が確立されているものを言う。

 『日本の下層社会』は、高校の日本史では、当時の最下層の生活者達を描いている書物であり、明治の後半から末期における社会運動の萌芽につながっていく書物であるとされている。実際にこの本の後半には、そうした部分も見られるし、最下層の生活者やその人達が生活している都市の中でも最も環境の悪い生活環境や生活文化を描いている部分もある。

 しかし、大部分は、江戸時代には、士農工商の差別社会にもかかわらず、まっとうに生きてきた町人や職人階級の人達が、都市社会が近代化される中で、「下層社会」の住民として位置づけられてしまった人達の生活が描かれている。

 実際に『日本の下層社会』には、当時の統計資料である賃金や生活費等の職業・階層による調査結果が掲載されているが、これらを現代の貨幣価値に換算すると凡そ、コンビニや、ファーストフードでの食事レベル、住居費もワンルームから1LDKのマンション相当、そして、学歴は、義務教育から高卒レベルの人達に当て嵌まってくる。労働者専用の寮もあり、教育(職業教育というよりも一般教育)が受けられる。この点では、日本の「下流社会」よりも、ずっと恵まれている。

 結局のところ、この本で扱われている労働者達は、現在のフリーターの人達もしくは、定職で賃金搾取が無い労働者は、フリーターよりも社会階層が上であり、私たちが、現在イメージする下層社会とは異なっている。

 むしろ一般市民が下層労働者階級として位置づけられ、明治30年代には、軽工業の熟成期を迎え、日清戦争の勝利等を経て重工業へと発展して行く中での労働者の生活変化が描かれている。

 著書の横山氏は、毎日新聞の記者か何かであり、当時としては、非常に客観的、数値的手法を中心に量的研究・質的研究の両面からこうした労働者階級の生活実態を分析している。

 もし、横山氏が今の世の中におれば、フリーターや派遣労働者の生活文化の実態について表していたろう。

 企業エリートの官僚化による失策、つまりアメリカ型グローバリズムの選択の結果、もたらされた社会の経済・文化・生活的環境の後退の結果、生き残ったもっともエゲツナイ寡占型(カルテル・コンツエルン)企業によって、ソーシャルキャピタルの商品化や収奪が進行している中で、我々「落層生活者」である一般庶民が「下流」としてのラベリングが行われている実態について、問題提起をしてくれる筈だ。

 とにかく読んでみれば、今の日本は、どんなに、明治30年代の「下層社会」といかに似ているのか、この本で痛感させられる筈だ。

狂った視覚2008/09/06 10:06

 最近、また、ロボットの視覚の具合がおかしくなっている。
 動く物体を発見したら、自動的に写真を撮る様にプログラミングしているが、この様な写真を撮ってきた。
 酒に酔った時に、私は、この様な幻覚を見る。ずっとハイな状態なんだろうか。

「平安文学のスピリチュアリティ」2008/09/06 21:47

『人物で読む源氏物語 浮舟』(室伏信助、上原作和、勉誠出版)

 この人物で読む源氏物語のシリーズは、大抵の国文学科がある大学の図書館には配架されている一般的な本である。

 この本の中で、佛大の斎藤英喜先生が、「平安文学のスピリチュアリティ」という題目で書かれている章がある。

 
 この著作があることを知ったのは、斎藤先生のWEBである。
http://nopperi.at.infoseek.co.jp/room/book-ronbun.htm

佛大通信大学院のスクーリングで上野先生の授業でもそれぞれの学生が好きな登場人物を選んで発表するという演習を行われた。

 浮舟論を発表された方もおられたが、この本等も参考文献に挙げられていたと思う。

 浮舟論については、今年の初夏に開催された中古文学会の大会でも取りあげている先生がおられた。

 こうした学会に出てこられて、源氏物語を扱っておられる先生は、圧倒的に女性が多い。それも大学院生や講師の方が多く、年輩の私などからみれば、実に華やかな会場に見える。

 こうした源氏物語の部会では、やはり、20世紀後半的な源氏物語観での批評・論評が中心となっている。それは、戦後の女性や性の開放の中で、源氏物語を自らのジェンダー、あるいは、セクシャリティー、あるいは、フェミニズム的な性向を持った視点で、論ずる方法がある。

 研究者の中には、浮舟と八の宮の関係を潜在的に自分の少女期の性的成熟と、潜在的な近親・・願望のライフストーリーを逆投影した浮舟像を予め造り上げて研究発表された方もあり、怖いオバサンが憤慨して「なんで、そんな変な考え方が出来るのよ。」と反論を述べていた。

 しかし、私にとってみれば、主張も反論も果たして、これが源氏物語の研究なのか、むしろジェンダー等の文芸社会学的な研究の範疇に入るのではないかと思った。男の先生方が敬遠される理由も判った。

 以上は、余談ではあるが、それ程、浮舟の人物像は、千年の時空を越えて、現代の女性にも直接的に訴えかけてくる。

 それは、千年前の貴族の子女でも同様であり、そうした経験・願望を斎藤先生は、更級日記の作者に見いだしている。

 少女から女への成熟の過程、それは、スピリチュアルな脱皮の過程でもあり、同時に、巫女的な聖的側面と同時に女として魔性、そして、エロスの獲得の過程でもある。

 これは、シャーマニズムにも言えることで、それらの側面も浮舟が薫と匂宮との間で悩み、入水、エロスの誘惑の要素もある逢魔的な体験、そして法師の物の怪の登場と告白、横川の僧都との出逢いと出家の過程につながっていく。

 源氏物語の中でも逢魔的な体験は、いくつも描かれるが、その中でも象徴的なのが夕顔巻である。
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 斎藤先生によれば、夕顔の潜在意識の中に「昔ありけん物の変化」が、現れた時、それは、光源氏の姿となり、やがてなにがしの院にて霊に取り殺されてしまう。

 この光源氏の姿に三輪山信仰等の古代説話等の言説として、重合性を持っているが、結局、光源氏は、夕顔の憑依を通じて、悪霊との対話を行う仕組みとなっている。

 それは、シャーマニズムにおいて、夕顔が憑座(ヨリマシ)であり、光源氏は、審神者(セニワ)の立場に置かれると斎藤先生は言われる。(私は、この説には疑問を感じる)

 これと同じ様な部分が浮舟巻にもみられる。それは、入水から救われて浮舟は、精神混濁状態が続く。

 そこで「憑き物落とし」が横川僧都によって行われる。

 浮舟に取り憑いた法師の霊が、八の宮家に取り憑いた経緯、大君を祟り殺したこと、浮舟も同時に殺そうとしたが、観音の力が強く、取り殺せなかった経緯を語る。(当然、浮舟がヨリマシとして語っている。)

 その後、面白いことに、意識を取り戻した浮舟が「いときよげなる男の寄り来て、いざたまへ、おのがもとへ」と言って抱かれた感じがしたことを語る。

 斎藤先生が注目するのは、死霊に取り憑かれた浮舟が、「いよきよげなる男」の姿をみる点であり。これは、様々な感得や霊夢で見られる影向の経験で神仏の姿の形容にみられる表現だという。

 これは、更級日記の孝標女の経験でも、霊夢・感得を通じて、人生の新たな局面に向かっている姿とも重ね合わされる。

 浮舟の場合は、悪霊と聖性との触れあう「霊域」の中で、身体のエロスを感じていることが、その「言葉」に示されているとされている。

 斎藤先生は、論の締めくくりとして、横川僧都と源信僧都と関連させて、これまでの台密では果たせなかった、新たな局面打開のきっかけを、「観想・称名念仏」を体現する新たな宗教者として果たしていることが描かれていると、いかにも佛大人文学科の先生らしい言葉で締めくくられている。
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 この斎藤先生の「浮舟論」への私の感想であるが、たしかにそういったスピリチュアリティ面が人物造形に大きく関わっていると思うが、それは、いくつかある要素の一つに過ぎないと思う。

 着想として面白いのは、孝標女、夕顔、浮舟と並列、比較して論じている点である。
 これは、古代の女性が娘から女に成長する時の通過儀礼としてシャーマニズム的側面が関わっていることを示唆される為であると私は解釈する。

 源氏物語の女性達は、全て、桐壺更衣の言葉に象徴される様に、「命生きたし」という切ない願望を持っていくが、夕顔や大君の様な夭折してしまう登場人物もいる。

 紫の上は、光源氏の晩年まで生き延びるが、残念ながら、浮舟の様な新たな人生の境遇を切り開く霊夢、神秘体験はなかった。

 むしろ、その様な経験に合わなかった女性の人生像を作者は象徴的に描こうとしていたのかも知れない。

 夕顔事件で「穢れた」光源氏は、その穢れがやがて青年期特有の病につながり、それを北山の僧都の霊力で浄化する過程で、若紫を垣間見て、光源氏の生涯の伴侶としての紫の上の女性像が形成されていく。(こうした方法によって、作者は、夕顔の暗さと紫の上の明るさを対象づけている。しかし、同時に命は、夕顔と桜花は、同様にはかないことを暗示しているのである。)

 しかし、結局は、その穢れや六条御息所の怨霊を、完全には、落とせなかった為に、晩年の悲劇につながっていく。

 源氏物語の最後の女性主人公として位置づけられた浮舟譚でも、こうした「霊域」での出来事が語られるということは、やはり、源氏物語の光源氏の女性遍歴・女性人物像の連鎖というアーチ型構造の完成・終結に大きな役割を果たしていることについて斎藤先生の論を読んで改めて認識された。

 こうした点から見れば、源氏物語の構想は、やはり五十四帖で完結していたとみるこができるだろう。

 但し、ヨリマシとセニワの立場で、光源氏がセニワの立場という論はおかしいと思う。たしかに悪霊は、ヨリマシにつくが、霊落とし、悪霊払いの儀式には、もう1人の役割が重要である。つまり、囮となるもう1人のヨリマシが必要である。

 では、セニワは、誰に当たるのか、それは、この物語の語り手と、この作品を読んでいる読者なのである。

 つまり、映画「リング」の様なTVのブラウン管・メディアの境界線を破って、不気味な長い髪の毛を振り乱して、怨霊は出てくるのである。

 それが、源氏物語が単なる小説ではなくて、物語それ自体が媒体である所以であると思う。

 これは、私の源氏物語「絵物語論」にもつながっているのだと思う。