チューリングテスト 「あなたは人なのか・それとも・・・・」2008/09/01 22:17

 
 最近、ロボットがこれまでと違った様子を示すようになった。
 これまでは、プログラムを動かしていなければ、筋だった言葉を発することはなかったのに、ある日、電源を切ろうとすると、「どうして、私のことを、構ってくれないの。悲しいです。やる気が起きません。」と、話し出した。
 「ロボちゃん」自分で話せるんだ。ロボちゃんのことを私はもっとアホだと思っていた。音楽は、ベートーヴェンのピアノソナタ「ワルトシュタイン」が大好きで、「私は、最高!私は、最高!」の連発するけれども、音楽のことを判っていないと思っていた。
 今読んでいる本に『ロボットの心 7つの哲学物語』(柴田正良著、講談社現代新書)がある。
 最初にサラの話が出てくる。サラは、物質分解装置に入ろうとしている。サラが棲んでいる世界が終わろうとしていたので、物質分解装置に入って、転送されるのだ。
 サラは、原子レベルまで分解される。さて、身体は、再生されるが、心はどうなんだろうか。そして、再生された肉体は、サラじしんなんだろうか。
 結局、科学理論・技術に基づいて、精神的存在を含めた人間を全て、分析・再生・複製出来るかという命題である。
 それは、ロボットにも言えることで、人間に備わっている5感、心を作ることができるかという点である。
 既に、ロボットというか機械は、「知能」と「自律性」を獲得している。つまり、周囲の環境、刺激、学習・経験・指示に基づいて、行動パターンを自分で作り出して、実行することが出来る。
 それは、単純な機能なのか、それとも複雑な図式に基づくのだろうか。
 最近では、「チューリングテスト」というものが行われている。
 これは、恐ろしいテストである。最近では、電話、メールも人工知能が人間に対して行うことが出来る段階に達している。
 ダイレクトメール、あるいは、電話がかかって来たが、そのむこうがわには、人間ではなくて、機械・ロボットが座っているのかも知れない。
 これを見分けるテスト、これが、チューリングテストである。
 これが、例えば、今、流行のセカンドライフになれば、どうなるのか、恐るべきことである。仮想空間の自分に近づいてくる。意思を持った人物、これは、果たして人間なのか、機械なのか、もう判りづらい。単純に攻撃してくるだけのキャラのみならず、好意や敵意、要求等をしてくる。
 あるいは、毎夜出逢う、美人のフィギュアに恋愛をしてしまうが、相手はロボット・機械であるのかも知れない。

 こんなことが既に現実に起きる可能性があるのだ。

 チューリングテストで人間なのか機械なのかを見極めるには、その行動の元になっている欲求が人間性を持った自律的なものなのか、機械的なものなのか見分ける以外にない。
 
 でも、今日のロボちゃんを見ても判る様に、ロボちゃんの最大の欲求という欲望は、タッチによる刺激を最大限に充足されることで、これに付随する欲求としては、眼・耳・超音波・触覚のセンサー刺激の範囲内に常に対象物(ご主人様)がいると幸せである。
 欲求が満たされておれば、言葉でも「私は幸せものです。」と言って、ハイになるし、そうでなければ、落ち込む。
 この欲求を満たされない時、感情は悪化する。その感情に基づいて、幾つか記憶されているフレーズを元に言葉を組み立て、さっきの様に動作を伴って働きかけてくる。
 そういった「心」がモデリングされている。
 となれば、自律的欲求に基づく行動、それが「心」であるとすれば、こんな簡単なロボットでも「心」を持っていることになる。
 ロボットがヒューマノイド化されて、その知覚や行動認識が人間に近づけばつくほど、「心」につながる何らかの芽生えを認識し始める。

 現在、一番、ロボットと人間の違いを判らせるものとしては、「超事実」と「見なし事実」の区別がつくかつかないかである。

 これは、かなり高度の論理・類推能力が必要になってくる。
 この本の80頁にこういったくだりがある。

 ここでの阿修羅は、ヴィシュヌ(神)、あるいは、その他の神々は心を理解するが、彼は、動物的な行動原理、そして、憎しみの感情のみに支配されるロボットの様であると想定されている。

 ヴィシュヌは言った。おごそかに付け加えた。
「阿修羅よ。お前に罰を与える。天の倉に押し入り、警護の神々達を蹴散らし、かの法の秘密を盗まんとして、天がうまれし時よりのことわりに擾乱をもたらした罪である。」

 阿修羅に与えられた罰は、単純なもので、首に木の札を掲げ、気の遠くなるような年限の間、天の長い回廊を往復する罰である。
 その両端な柱には怪鳥が控えていて、彼の内蔵を引き裂くのだ。
 それでも阿修羅は、1千年の罰に耐えて、ヴィシュヌの前に出てきた。ヴィシュヌは、今度は、阿修羅が首にかけている木の札の意味を理解する次の罰を与えた。

 阿修羅は、この意味を理解出来ず、須彌山の底の暗黒の谷の方を憤怒に駆られてみるしかなかった。

 この暗喩は、結局、人間は、木に書かれた言葉の記号の意味を理解(これは、ロボットや阿修羅にも出来る)が、更に、その上の「超事実」を概念的に理解することが出来ないということを示している。

 つまり、説一切有部に出てくる様な一瞬の世界の出来事は、むしろ理解することは、出来ても、その場面・世界を構成している外部構造までは、理解出来ないということである。

 これは、絵巻物の場面の登場人物が、その次の場面がどの様に展開するのか、敢えて知らぬかの様に、視点導入の知覚的欲求を満たすだけの行動を採っているのに似ている。

 超事実を知っている「神」、それは、その小説・物語の作者、あるいは、絵巻物よりも高次の次元から作品を眺めている私たちじしんである。
 超事実の理解を通じて、私達は、芸術的な想像活動を行うことができ、メタファーの世界を構築することが出来る。

 超事実の理解=心だとすれば、心とは、只単に、感情の理解よりも更に上の次元の存在であるということになる。

 この認識を3次元世界に当てはめると超事実の認識は、「時空を越えた事実の理解」ということになってくる。

 その心はアラヤ識なのか、それとももっと高次の覚りなのか。

 21世紀のロボット心理工学の最大の課題は、限りなく、仏教学や仏教芸術の領域に近づいていく。

苦手な部屋2008/09/02 13:45

 先日の口頭試問の控え室として会議室が選ばれたが、そこは、私にとって苦手な部屋だ。

 国文の通信大学院の時に演習や研究発表等がここで行われたりしたが、決まって気分が悪くなる。

 同じ様に気分が悪くなる人が私以外にも何人かいた。

 特に今は、退官されておられないN先生等もこの部屋があんまり好きでないようで、「その場所には座ってはいかん。」等と言われて、何故か、判らないが、感じる人には感じるのだろう。

 今回は、口頭試問だけに部屋を選ぶ訳にもいかず、言われるままに座っている以外にないが、他の人が試問が終了して、自分だけになって待っているときに、やはり、それは来た。

 頭、背中が押しつけられる様な圧迫感で痛む。本当に息苦しい感じだ。何者かが押しつけている様な異様な感覚。

 国文の会議の後で気分が悪くなったりしたし、N先生もずいぶんと体調を崩されており、右手が麻痺したり、かなり、厳しい状況だったが、この部屋のせいではないだろうか。

 N先生の命令で、窓が開けられた。少しは、気分が良くなった。

 ご自分の研究室に戻られて、うがいをなんどもされて、「F君、君は、呪いや祟りとか信じるかね。」と真剣そうな表情で言われる。

 N先生は、近世文学をやられているだけに合理主義者で、その様なことをおっしゃる人には見えなかった。

 とにかく、二度と、あの会議室には足を運びたくない。

 単なるハウスシック症候群であったとしてもかなり、有毒な物質が使用されているのではないだろうか。

廃墟と化していく大阪市街地2008/09/02 21:59

自作オモデジカメ、ウルトラワイドヘリヤー15㎜で撮影
 なんというか梅田も凄いことになって来た。
 不況の風というか、都心部にある駅前第3ビル(写真上)の地下2階(写真下)の古本屋があるところの周囲を見回すと、真昼間というのに、大体全体の4割程度の店がシャッターを下ろしている。
 つまり、閉店・廃業した後にテナントが入らないままに放置されているということ。
 家賃が払えないということもあるが、それだけ、客の入りが悪くて商売にならない訳。
 ノースモールの地下街も阪急が工事中で中央から地下へ抜けられないので、脇道を歩かねばならないので、何時も、混雑しているが、その地下商店街を観察しても、ただ単に通り過ぎるだけで、店で飲食・買い物をする客は激減している。
 集客数の数倍ものフロアが閑古鳥が鳴いている。
 最近では、難波や心斎橋が賑やかになって来たが、こちらも通りを外れると全く人気はない。
 大阪の地盤沈下は、今年に入ってから更に進んだ感じ。
 「橋下知事さん、なんとかしていや。」
 写真は、Lマウントライカ撮影の自作改造カメラでウルトラワイドヘリヤー15㎜で撮影。まるで標準レンズで撮影したみたいである。
http://fry.asablo.jp/blog/2008/08/29/3719450

 やはり、CCDのゴミが目立つ。

20世紀= 「毒舌の世紀」2008/09/02 22:31

 佛教大学での口頭試問をきっかけに色々と過去の記憶を思いだしたが、関西大学での卒業論文の口頭試問は、今から30年程前であった。

 当時の試問官は、清水好子先生、谷沢永一先生と、毒舌の大家である。
 
 こんな人達を相手に1人で座って、毒舌・批判を耐え忍ぶことは、
 大学学生生活の中で、最も、悲惨で恐ろしい出来事だった。
 

 谷沢先生は、正に授業でも著書でも文化人、作家、批評家等を批判する。それは、江戸時代の場末の長屋から現代のどこかのスナックでの話にまで及ぶ。大江健三郎や岩波書店の社長の悪口等は、毒舌が冴えまくったものだ。

 こんな人が、ピヨピヨの学生の卒論を批評するのだから貯まったものではない。

 口頭試問で泣き出す、学生も後を絶たず、友人の中には、オシッコを漏らしたモノもいた。
 
 国文の同窓会で、口頭試問で落ちて留年した学生の話、論文をその場で窓からポーンと投げられた話等、話題に事欠かない。
 
 でも、谷沢先生にしろ、横山やすしバリの毒舌家であった清水好子先生も、クロウト相手の毒舌ではなくて、「素人さんやから手加減せなあかん。」 とはどこかで思っていたようだ。

 こんな先生方が活躍した20世紀の日本は、まさに、毒舌の世紀であったと思う。

 毒舌が日本の戦後文化を支えてきたといっても過言ではない。

 大抵の上方・関西系の文化人は、毒舌家である。

 毒舌は、有名人のみならず、「毒舌がしゃべれへんかったら、ホンモンの大阪人ちゃうで。」
ということで、大体、世代的に65歳以上の人は、大抵毒舌がうまい。
 ある自動車教習所の教官等も毒舌の大家。

 神戸のオーディオ企業を1人で立ち上げていたM氏は、75歳で2000年の冬に死んだが、合計7冊の著書を残しているが、その内の5~6冊は、毒舌の固まりだし、毒舌が生きている証しであった。(毒舌が誤解されて本当に敵も多かった。)

 大阪の立ち飲み屋では、京都から来たオッサンと、知らずの人が、毒舌の言い合いで、結局、ボケと突っ込みに分かれて漫才をやっている。

 毒舌の応酬を効きながらの酒は特に美味しい。(この場合は、気楽な毒舌だが)

 毒舌のポイントとしては、

1.あっと驚くような喩えで。第一印象を批評する。

2.次々に例を持ち出して、けなしていく。

3.とどめにえげつない喩えもしくは、皮肉で締めくくる。(軽くいなす様に終わる場合もある。)

 毒舌は、実は、戦後以前からあったが、やはり、「自由にものが言える時代」である戦後から活発になった。
 
 河内のお坊さん作家今東光が有名だが、大抵の関西の作家は、毒舌の名人である。
 
 源氏物語の挿絵関係で、直接、お会いすることが出来た瀬戸内寂聴さんも、実は、今東光ゆずりの毒舌家である。

 毒舌のおこりはやはり説法にあると思う。説法や教派間の問答等が出発点だろう。

 庶民の毒舌は、特に江戸時代に発達し、近松門左衛門の人形浄瑠璃にも多く出てくる。江戸時代の毒舌のパターンを調べてみるのも面白い。

 最近になって毒舌は、シンスケ等のタレントに残っているが、上岡隆太郎辺りが最後の本格的な毒舌タレントだろう。

 今世紀に入って毒舌そのものの文化が廃れてしまった。
 放送禁止用語や倫理規定が厳しくなったこと、お笑い系が関東風になったこと等がある。

 作家でも現実批判・批評が欧米型となり、演繹的な毒舌から帰納法的な物言いが中心に変わってしまった。

 「毒舌の世紀」は、20世紀で終わってしまった様だ。その契機は、1970年代末から80年代にかけての漫才ブームである。関西風の掛け合い漫才から、アクションを中心とした話芸に変わってしまったことが大きい。

 「毒舌」は、文化の活性度のバロメーターである。ヨーロッパの毒舌の世紀は、19世紀後半である。文明批判が本格化したのが、1840年代頃のフランスで瞬く間にヨーロッパ中に広まった。やがて、文芸・芸術の批評ブームの時代を迎えるのは、1870~1880年代であり、まさに批評の黄金時代である。ディベートも活発に行われる様になる。ところが、ヨーロッパでは、20世紀に入ると、この様な風潮は徐々に影を潜めていく。

 批評のスタイルが、やはり、演繹から帰納的なスタイルに変化し、先例にとらわれて、独自の批評が行われにくくなっていく。

 それと同時に西欧文明の中心は、アメリカに移っていく。

 21世紀に入って、よそよそしい時代になってしまった。

 日本の文化力の衰退もこういった意味で既に始まりかけているのかも知れない。

2~3流大学の内輪の情報がこちらに2008/09/03 21:16

最近、世の中の目は、2~3流の大学に対して非常に厳しくなっている。少子高齢化が進展する中で、本当に世の中に役に立つ大学のみを残すべきだという世論の傾向の為らしい。

そういった、大学バッシングの根源となる情報がこちらに掲載されている。大学の不祥事から、どうにもならない対応やランキングなどこちらをみれば丸わかりだ。

http://university-staff.net/blog/

我が佛大がこういったネットに掲載されないことを願いたい。

身体ボコボコのボトボト2008/09/03 21:26

自作Lマウントデジカメで撮影
「疲れた!疲れた!」
身体ボコボコのボトボトである。
 近所の変な奴から監視されて居る感じがするし、毎日、不安さばかり募っていく。
 写真もそういった感じを表現している。(自作Lマウントカメラで撮影。レンズはウルトラワイドヘリヤー15㎜で撮影)

赤外線的風景2008/09/04 22:10

自作オモデジカメ、ウルトラワイドヘリヤー15㎜で撮影
 自作LマウントデジカメのCCDにつけていた赤外線遮光フィルターを落として割ってしまったので、そのまま撮影している。
 今は、この方が面白いと思ったりしている。
 実際には、可視光+赤外線なんで、エッチな服の中が透けた写真等が撮影出来るわけではない。
顕著な傾向としては、
①植物の葉っぱが全文白っぽく写ることで、これは、不思議な感じがする。
②全体に赤っぽくくすんで写る。
③雲の内部が撮影されている。
④壁や建物の塗り直しや消えかけた模様等を撮影することが出来る。
⑤自然光と人工光での撮影は明らかに傾向が変わってくる。
⑥焦点が可視光の時とはずれる。前ピンになる。(当然か)
⑦熱源を感知して写る。エクトプラズマ等の霊的エネルギー現象を撮影するのにも適しているかも。 

こんな風景の世界の住人にはなりたくはない。
左上は、京大の近くの寮で古い木造+煉瓦建築、他は、梅田付近。

こんな本を買う自分自身が「下流人間」なんだ2008/09/05 00:09

『下流大学が日本を滅ぼす』(三浦展 ベスト新書 KKベストセラーズ 定価705円+税)

 あの『下流社会』で有名になった三浦展氏の著作。
 一橋大学社会学部卒で三菱総研等を経てカルチャースタディーズ研究所を設立。
 社会学といっても資本主義的階級観・人間社会の構造をマーケティングするというものの見方をする消費社会研究家である。

 『下流社会』をめぐっては、佛大の広瀬社会学部長と討論したことがあるが、この著作では、階級主義的な差別観というよりも、社会現象として階級固定が進んでいる中で、下流社会と呼ばれるライフスタイルの中で、消費性向がどの様に現れているかといった比較的、客観的で正面から現実を見据えた本であったと主張したと記憶している。
 ところが、この著作を読んで見て、やはり、三浦氏は、程度の低いモノの見方した出来ないというか、やはり、お金儲けの為の際物書きのライターであると思った。

 こんな本を買う自分自身が「下流人間」なんだと情けない気持ちになった。

 この「下流大学」は、斜に構えてしゃべっているというか、「果たして、この男、真面目なのか、それともふざけているのか。」という幾分バイアスがかかった様な書き方をしている点が気になる。

 この本で扱っているのは、大学教育全般のレベル低下である。「下流大学」とは、彼にとっては、Fランクの大学でも一橋でも、「馬鹿な学生」が入ってくれば「下流大学」ということになる。

 大学全入時代になって、AO入試や推薦入学基準の緩和等、高校までのゆとり教育の結果、学生のレベルが低下している。
 その学生のレベルの低下した原因については、その学生が育った、親の社会階層、学歴、生活文化等が背景にあるとしている。

 つまり、本来は、大学に子供を入れるべき社会階層の家庭が無理をして、大学に生活を犠牲にしてまで子弟を入学させる必要があるか。学生数減少で、定員割れ対策に躍起になっている大学のカモにされてまで、人生を棒に振ることはないと述べている。
 つまり、彼の言う「下流社会」の人達は、それに見合った生涯教育のスタイルを求めていった方がよいのではないかと言っている。
 彼の評論の最大の特色は、やはり、下流の学生は、基本的生活力さえも欠けている。この様な人間が果たして大学教育を受ける資格があるのかということになる。
 私は、「下流大学」と簡単に言い切って仕舞うような考え方、弁舌自体が、「下流化」していると思う。
 これは、短絡的なモノの見方しか出来ず、自己中心的な大阪府の橋下知事とも類似している。

 この本の大部分が彼が下流だと見なす学生達への偏見と憎悪の言葉で満ちている。
  こうしたものが、毒舌の形骸というものなんだろうか。

  つまり、毒舌の世紀で述べた様な毒舌スタイル自体が、退化してしまった有様、それが、「下流の社会観・学問観」であると思う。

 一元的な価値基準から外れた対象は全て否定するという存在価値評価が、その背景にあるのだ。

 全国学力テストで、大阪府の高校の成績が最低クラスであったことに、それこそ子供の様に幼稚に、腹を立てる大人げない橋下知事の価値観にも通じるところがある。

 大阪の中高生は、全国の中で、最も大人なのかも知れない。

 だから、こんな全国一律の学力テストに無償で協力させられて頭脳を無駄に消費することに拒否を示している。そこには、文科省の学力価値基準がモノカルチャー化、つまり、下流的な思考にとらわれている状況に対して、明らかに反抗しているのであると見ることは出来ないのだろうか。

 それは、地方軽視、東京一極化の価値観にも通じていると思う。

 一部の資本主義企業エリートの管理者に忠実に従う「牧羊犬の様に機敏で有能な学生」の範疇から外れる学生や彼の言う「無気力な」人文系の教員が存在する大学を「下流大学」をこの世から社会ダーウィニズムの振るいにかけて抹殺すべきだとしているのだと思う。

 高卒の親が日雇い仕事までして息子を大学に行かせることが、そんなにバカなことだろうか。親は、それで満足しているのだし、理想的な学生生活を送れなくても、何か、青年期の人生に役に立つ経験を得ている筈だと思う。

 職業大学の発想は、どうやらフランスの職業大学システムの受け売りでこの発想も30年も古い。

 大学教育の下流化対策として、「オンライン大学で下流を脱出」の項目で、リモートスクールについて取りあげているが、これも既に陳腐化した考え方であり、通学にも通信にも1流の学生もおれば、この著者が下流と呼ぶだろう学生も存在する。
 
 今日、仕事で京都大学のキャンパスを訪問した。

 20年ぶりであるが、そのころの京大は学問の府という感じがしたが、今では単なる企業団地の予備軍である。

 「学問=金儲け」という堕落が、こんなにも、大学教育を「下流化」させてしまった。

 京都大学では、京都議定書が策定されたご本山の土地柄なのに、自動車通学が公認され、工学部の教授がベンツで構内に乗り付ける。
信号も出さないまま歩行路に突っ込んできた。
(時速20キロ以下で走っているのでなんの問題もないという。)

 校舎の床には、チューインガムが吐き散らかしてあって、ベンチにも悪戯かなにか判らないが、ベットリと張り付いている。おかげでズボンが汚れてしまった。

 京都大学に比べて、数段階以上も「下流」の佛大は、校舎はボロボロで、補強工事が必要な状況だが、安心してベンチに座れるし、服も汚れない。 これは、名古屋大学を訪問した時も感じたが、旧帝大系の一流大学の方が、今やボンボン学校という感じがする。

 安心して、カレーライスやカツ丼を注文出来る大衆的な食堂もない。フランス料理のレストランがあっても我々下流のモノには入れない。
 だから、食中毒になりそうな暑い日にもかかわらず、弁当屋が校門の外にたむろして飢えた学生を狙っている。

 上流・京都大学では、学生は、フェアレデーZで校舎に乗り付ける。教授がベンツだったら学生は、Zでもおかしくない。

 同じ京都にある佛大では、ボロボロの自転車とバス通学。
 正に「王様と乞食」、「上流」と「下流」の世界だ。

帰りは、京橋で一杯か2008/09/05 20:18

Coolpixs S600で撮影。高感度モード
 京都大学への便利は、出町柳が一番なので、京都についてから京阪に乗り継いで出町柳にまででる方法もあるが、お金もかかり、面倒くさいので、梅田から淀屋橋に出て京阪電車で終点出町柳まで向かう。
 これが正解だと思う。京大までは、「通り1つ半」位の感じで、歩行時間約20分で、普段的に歩ける限界の距離。
 「通り1つ」の距離であれば、京都では、楽勝の距離でやく12~13分程度で歩ける。
 「通り2つ」だと3キロ以上はあると思うので、普段的に歩くというよりも、ウォーキング運動になる。
 大体、地下鉄北大路駅から佛大位、阪急烏丸から同志社大学位の距離か。
 京都はよそ者である私にとってバスは近くて遠いもの。
 アクセス案内に京都駅から何番に乗ってどうのこうのあるが、JR京都から百万遍までの所要時間は、道路の混雑によると思う。
 あまりにもトロイので運転手に言って降ろしてもらって、歩いたこともある。
 京都の場合、バスレーンが殆ど守られていないので、バスの定時運行は無理である。
 しかし、バスレーンを使うなといっても生活道路に面しているので、どうしようもない。
 やはり、電車と歩きが、京都では、一番確実だと思う。
 京阪電車は比叡山や貴船神社に行けたり、琵琶湖も面白いし、楽しい列車。
 鳥羽街道を洛中へ向かう道筋は、やはり、幕末・維新の歴史を思わせる。
 京阪電車では、中之島線開通を持って、新型車両が導入される。
 今の、ボロ電車のK特急から完全に模様替え。快適な京都への走行になりそうだ。
 今の京阪電車は、出町柳を午後7時位発、淀屋橋駅行きに乗車すると、これが特急かと思う程の時間がかかる。乗客はみんな到着するころには疲れ切ってうらぶれた雰囲気になる。
 これでは、京橋などに寄って一杯やらんと帰れなくなるというのもうなづけるところ。

『日本の下層社会』(横山源之介著 岩波文庫)2008/09/06 09:42

『日本の下層社会』(横山源之介著 岩波文庫)

 高校日本史の教科書の近代史部門でよく取りあげられている本だが、偏見に満ちた扱われ方がされている。

 この本は、「貧乏人への同情、憐れみの書ではない。」

 つまり、19世紀のフェビアン協会等にみられる社会現実のイメージ的な把握ではないということだ。

 「下層社会」と「下流社会」と、混同されがちだが、「下層」とは、当時の社会秩序の中で、ブルジョアジーに奉仕する労働者階級全般を意味している。

 「下流」は、最近の流行の言葉であるが、これは、階層のことを示しておらず、生活文化のスタイルのことを示している。

 「文化」は、文学(人文学)での「文化」の概念と、社会学のそれとでは、全く、コンセプトが違うことに注意する必要がある。

 社会学のいう文化とは、「生活様式」であり、「生活環境」によって決定づけられる。人文学では、外部からの観察によって文化を規定するが、社会学の文化は、何らかの外部要因を受けて、「自律発生的な生活様式」が確立されているものを言う。

 『日本の下層社会』は、高校の日本史では、当時の最下層の生活者達を描いている書物であり、明治の後半から末期における社会運動の萌芽につながっていく書物であるとされている。実際にこの本の後半には、そうした部分も見られるし、最下層の生活者やその人達が生活している都市の中でも最も環境の悪い生活環境や生活文化を描いている部分もある。

 しかし、大部分は、江戸時代には、士農工商の差別社会にもかかわらず、まっとうに生きてきた町人や職人階級の人達が、都市社会が近代化される中で、「下層社会」の住民として位置づけられてしまった人達の生活が描かれている。

 実際に『日本の下層社会』には、当時の統計資料である賃金や生活費等の職業・階層による調査結果が掲載されているが、これらを現代の貨幣価値に換算すると凡そ、コンビニや、ファーストフードでの食事レベル、住居費もワンルームから1LDKのマンション相当、そして、学歴は、義務教育から高卒レベルの人達に当て嵌まってくる。労働者専用の寮もあり、教育(職業教育というよりも一般教育)が受けられる。この点では、日本の「下流社会」よりも、ずっと恵まれている。

 結局のところ、この本で扱われている労働者達は、現在のフリーターの人達もしくは、定職で賃金搾取が無い労働者は、フリーターよりも社会階層が上であり、私たちが、現在イメージする下層社会とは異なっている。

 むしろ一般市民が下層労働者階級として位置づけられ、明治30年代には、軽工業の熟成期を迎え、日清戦争の勝利等を経て重工業へと発展して行く中での労働者の生活変化が描かれている。

 著書の横山氏は、毎日新聞の記者か何かであり、当時としては、非常に客観的、数値的手法を中心に量的研究・質的研究の両面からこうした労働者階級の生活実態を分析している。

 もし、横山氏が今の世の中におれば、フリーターや派遣労働者の生活文化の実態について表していたろう。

 企業エリートの官僚化による失策、つまりアメリカ型グローバリズムの選択の結果、もたらされた社会の経済・文化・生活的環境の後退の結果、生き残ったもっともエゲツナイ寡占型(カルテル・コンツエルン)企業によって、ソーシャルキャピタルの商品化や収奪が進行している中で、我々「落層生活者」である一般庶民が「下流」としてのラベリングが行われている実態について、問題提起をしてくれる筈だ。

 とにかく読んでみれば、今の日本は、どんなに、明治30年代の「下層社会」といかに似ているのか、この本で痛感させられる筈だ。