「無明の闇」とも言われる様に人間の罪業の根源がこの中に含まれてくる2009/10/27 17:08

無明の闇から光明へ

風邪で高熱なので、自宅で、NHK教育TV「こころの時代 法然を語る7」の録画をみた。

相変わらず、広島大学院教授 町田宗鳳さんのお話は簡単で判りやすい。

今回は、唯識というか六識+マナ識とアラヤ識について、法然、親鸞の思想との関連について簡単に述べられた。

八識については、大学の仏教学概論のテキスト履修でも学んだが、第6識の意識について、インド思想というか哲学の凄さには驚かされる。

つまり感覚が意識として統合・分析された状態で人間には、現実世界が認識されるというコンセプトは、ロボット工学のニューロンの理論に通じる先端的発想である。

マナ識というのは、こういった現実認識の奥にあって、我々が「無意識の行動」とよんだり、「潜在的指向性」あるいは、ユングやフロイトの考え方に近い。

マナ識が人間の現状認識及び行動を制御している訳で、非常に深い意味を持っている。

ここまでは、人間個々の精神世界の領域であるが、第8識は、更にその奥にある全世界の有情のモノに共通する無明の意識である。

「無明の闇」とも言われる様に人間の罪業の根源がこの中に含まれてくる。人々を煩悩から救う為には、この「無明の闇」を克服しなければならない。

 先生のお話であれば、法然上人以前の仏教は、この「闇」の克服の為に、様々な善行、功徳を施し、更には、僧侶は厳しい修行や学修を行う。

 しかし、法然上人は、その様な行為を行っても無明の闇を克服することは、不可能であるいっている。

 それは、第8識アラヤ識というのが、人間の第1~第6識までの感覚・意識の世界から第7識マナ識を経由して、第8識アラヤ識に作用して変化を生じさせる様な縁起・因果関係は存在しないことを示している。

 つまり、アラヤ識とそれ以外の識とは、不可塑、不可逆であると定義した訳である。

 実際、そうだと思う。意識化の人間の行動で制御出来ない現象についていくらアクセスしようとしても無駄だからだ。

 そうなると、アラヤ識の領域に作用出来るのは、人智を越えた如来、菩薩以外にはなく、他力本願に拠らなければならないということになる。

 つまり、無明の闇を光明で照らし、衆生を救済出来るのは、阿弥陀仏でしかないというのが、念仏思想であるという。

 更に、法然上人は、念仏の中で、ただ専らの阿弥陀仏の名号を唱える称名念仏以外に方法がないと言われたということになる。

 選択集に書かれた難しい文言を引くこともほとんどなくて、こういった思想を短時間に判りやすく説明することは、困難だが、私なりに、町田宗鳳のお話をうつらうつら聴きながらこの様に理解した訳である。

 難しい修行や学問、布施をしなくても極楽往生がかなうということではなくて、難しい修行や学問(明らかに天台教学)を行っても意味がないということになり、これでは、たしかに既存宗派の誤解、批判を浴びることとなり、次回の番組で取りあげられる法然上人の晩年、没後を見舞った数々の法難へと結びついていくのである。

 但し、町田先生は、法然上人はリアリストであると申されたが、たしかに合理的な考え方ではあるが、リアリズムに結びつくものではないと私は、思うのだが。

 番組視聴後、午後の診察に医院に出かけた。鼻の穴に何から綿棒みたいなものを入れられるが、これが痛くって涙が出そうになった。

「小さいお子さんはこれで必ず泣かれるんですよ。」と先生のお話。

 私も泣きそうになったが堪えた。幸い感染していなかった。熱冷ましと消炎剤、トローチ等を頂いて帰宅した。

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