9.古書の注釈を作らんと早く心がくべし2009/11/09 20:54

 9.古書の注釈を作らんと早く心がくべし

①さて、又、五十音のとりさばき、かなづかひなど、必ずこころがくべきわざ也。

○さて、また、五十音の取扱いかた(区別)、仮名遣い(用法)等を必ず心がけるべき技術である。

 古文の学習でも必ず、歴史的仮名遣いを学ぶが、江戸時代においては、仮名遣いの用法の乱れについては、所謂、四つ仮名を含めて、大きな問題であった。それは、仮名文章が書かれた平安時代から近世に至るまでの日本語の発音の変遷によるところが大きい。

 元禄時代には、「ジ」、「ヂ」、「ズ」、「ヅ」が完全に同音化してしまった。こうした状況を踏まえて1695年には、、『蜆縮涼鼓集』(けんしゅくりょうこしゅう)という、四つ仮名の書き分けのみを専用に扱った書籍が出版された。

 日本語の正確な文章を書く為には、まず、仮名遣い(五十音のとりさばき)を学修する必要があった。

 また、五十音のルーツを学ぶことは日本語の歴史を学ぶことでもある。本来、平仮名、片仮名は、漢字の音を示す、反切を説明するものであり、経典の音義研究に関わるものであった。平安時代中期の『孔雀経音義』や『金光明最勝王経音義』などがあり、「音義」とは、漢字の発音と意味を表した注釈書のことであり、仏教において梵字を漢字や仮名で書き表そうとしたことがその起源である。

「いろは」、「あめつちの歌」、「大為爾(たひに)の歌」等が五十音を学修する為の幼学教材となった。これらの内容については、中公新書の「日本語と辞書」(山田孝雄著)に詳しい。

 関大の国文科に進んでまず、学んだのが、この本であった。大学生といえども、「いろは歌」から始めるのが、国語・国文学を専修したものの宿命なのだ。

②語釈は緊要にあらず。

○語釈は、取りたてて直ぐに必要ではない。

③さて又、漢籍をもまじへよむべし。古書どもは、皆漢字・漢文を借りて記され、殊に孝徳天皇・天智天皇の御世のころよりしこなたは、万の事、かの国の制によられたるが多ければ、史どもをよむにも、かの国ぶみのやうをも大抵はしらでは、ゆきとどきがたき事多ければ也。

○さて、又、漢文で書かれた書物をもまじえて読んだ方が良いだろう。古い書物(仮名表記以前に書かれた資料)は、総て漢字・漢文を用いて記述されている。特に孝徳天皇や天智天皇の時代以降は、総ての物事が、中国の政治制度を模倣した事例が多いので、史書等を読む場合にも、漢文の読解力がなければ、どうにもならない訳である。

 私の場合は、関大生の時はサボっていて、殆ど漢籍を読む稽古をしなかった為に佛大の大学院(通信)にようやく入れてもらった後で、大変な苦労をした。同時に漢文が読解出来れば、国文学関連以外の仏典や西域(敦煌)文書、歴史書等の読解範囲が広がり、世界観が大きく変わったので、現役の大学生の時、もっと学んでおくべきだったと痛感した。

 漢文は受験用という暗いイメージがあるが、人文学の分野の研究者にとっては、必要不可欠なリテラシーである。

④但し、からぶみを見るには、殊にやまとたましひをよくかためおきて見ざれば、かのふみのことよきにまどはさるることぞ。此心得、肝要也。

○ただし、漢文を読む場合には、特に大和魂を堅持して見ないことには、漢文の姿形に惑わされてしまうので、この心得は、肝要なのだ。

やまとことばの表現は素朴で優しい。これに比べて、漢文は論理的で説得力があり、格好が良い。たしかに中国語は、論理的な言語に対して、日本語は、精神的な言葉である。スピリチュアルな面を決して忘れてはいけないのだと宣長は、ここで述べているのだと思う。

⑤さて、又、段々学問に入りたちて、事の大筋も大抵は合点のゆける程になりなば、いづれにあれ、古書の注釈を作らんと早く心がくべし。物の注釈をするは、すべてに大きに学問のためになること也。

○さて、又、段々と学問の世界に入っていて、その大筋について大体、納得・理解が出来る様になったならば、自分なりに古書の注釈を作ってみることである。物の注釈をすることは、総ての面で、学問の為になることなんだ。

 今、こうして、「うひ山ぶみ」について自分なりに注釈・考察を加えているが、必要なことだと思う。

 最近では、学部生はおろか、院生、ひいては、教員に至るまで、自分の専門分野の自分なりの注釈を続けている人があまりにも少ない。

 注釈の作業は、出版を目的にしていなければ、まったく利益(学位とか論文)につながらないので、嫌がってしないのである。

 従って、いつまでたっても注釈書1冊も出せない大学教授の先生さえも存在する。

 かつて近世文学の長友先生は、「注釈全集の1巻も出せないようでは、一人前の学者ではない。」ときっぱりと言われた。

 私の高校時代の恩師であるY先生に、私だけが見せていただいたが、古事記、源氏物語等の古典籍の注釈がビッシリと大学ノートに書き込まれておられた。

「ここの部分がいくら考えても判らないんだ。君は、どう思うかい。」等と尋ねられたこと等が記憶に残り、古典籍の世界にのめり込んでいく機会となった。

 先生は、私の出身校である県立高校の創立に尽力されたが、その合間に地道な研究を続けられておられた。毎朝5時におきて、源氏物語の注釈をコツコツと進めていくのが、何よりの楽しみであるとおっしゃられた。

 注釈を作るということは、自分が研究する古典作品の全体像を確立するということである。この作業を行わずに、いくら、国文学研究資料館の論文データベース等で先行研究をほじくり出して、他者を論って、問題提起を行っても、底の浅さは知れているのである。

 地道な作業を現代の大学教育・研究者の先生方は、忘れてしまわれておられる。