現在の国際的なIT技術・産業では、この可塑性については、殆ど考慮されていない2010/08/30 23:02

 TWITTERを始めているが、こうゆうのをミニブログというらしい。

 そうしたら、本来のブログに140文字以下の内容を書き込んだらいかんのやろうか。

 TWITTERでは、プロフィールをアップするが、ブログに比べて匿名性が高く、WEBやブログに書かれていない情報がゲットできたりする。

 その中で、一番、凄いと思ったのは、笠間書院さんの情報で、国立国会図書館の全蔵書のデジタル化プロジェクトである。

 これが完成出来れば、国訳大蔵経とか、群書類従とか、様々な古典等もデジタル化されることになる。

 しかし、ルビとか訓点等もデジタル化されるとなれば大変。

 また、当用漢字以外、特に、コンピュータに表示出来ない文字の扱いとか、あるいは、挿絵等はどうなるのか。

 僕は、本は、単なる文字情報以外の部分である装幀とか手触り感、重量感、印刷の匂いとか、そういうのが全て書物だと思っているので、疑問を感じてしまう。

 また、25年前に私が関西大学に提出した論文『未来の図書館』には、こうした情報のデジタル化の動きとか、IPADとかそういったものが全て、予言され、インターネット等存在しない時代にかかわらず、無線LANで全世界のネットワークシステム低コストで接続出来る状況についても、全て的中しているが、これから的中してもらったら困る部分もある。

 『未来の図書館』を書いた時代には、国会図書館も東大とか国公立図書館も、我が関大の図書館も老朽化し、コンクリの割れ目から雨水が浸入したら、酸性紙問題とか明治初期の書物の場合、インク自体が変質してしまう問題とか、紙媒体の資料の蓄積に限界が出来ていた時代であった。

 しかし、その後、建築技術の進歩、自動書架とか、新技術が導入されたこと、全国的に図書館が多く建設される様になり、蔵書の分散化が図られたこと等、事態は変わった。

 しかし、国会図書館の蔵書が全デジタル化されるということは、納本制度等を考えると、国内で出版される全ての書籍がデジタル化されるということで、そうなれば、ネットワークを通じて、1冊も蔵書がない端末センターとか、或いは、一般家庭で資料が閲覧出来る日がやってくるのかもしれない。

 これらのデジタルデータは、運用は、HDDかも知れないが、やがては、全てがシリコンメディアに保存されて運用され、保存は、やはり、ブルーレイとかそういったディスクに永久保存されるかもしれない。

 僕が論文を書いた時代には、CDさえも存在していなかったので、初期のレーザーディスクをイメージして保存技術に書いたが、こういった、光ディスクの場合は、何が問題かと言えば、解読に再生装置が必要であることである。

 現代文明は、進歩が当然だということになっているが、例えば、HGウエルズのタイムマシンの2回目の映像化作品では、光ディスクの再生を試みるが、再生技術は既に退化し、化石の様なフォログラムロボットが、部分的にいくつかの語句を再生出来る程度にとどまっている。

 HGウエルズの原作を読むと、青磁で出来た不思議な図書館の遺跡を訪問するシーンが出てくるが、そこに書物らしい痕跡を発見する。しかし、手で持ってみるとそれらは、一瞬のうちに粉塵と化した。

 2回目の映像化された映画でも、主人公が絶望感にとらわれ、涙を流すシーンが出てくる。

 つまり、圧倒的な進歩を遂げていると思った未来社会が、書物さえない低級なものに退化していたということだ。

 数十万年後の人類は、書物を読むという習慣が失われ、生き残りのホログラムロボットが断片的に再生する古代語を聞いて、辛うじて過去の文明の存在自体は、知っているというシチュエーションとなっている。

 実際には、書物の保存よりも光ディスクやメモリーの保存の方が、ずっと耐久性が低いことが判ってきている。こうなると、何度もダビングを繰りかえすという定期的な保守作業が必要になる。

 果たして、人類は、これを永続的に出来るかという問題。

 宇治の平等院の神居住職は、文化財デジタルアーカイブのスクーリングで、この問題についても講義中に述べられた。

 特に画像データのスキャニングと保存、そして、データ再生の問題だが、既に10年以上前に保存されたデータが、ソフトウエアが対応していない等の理由で、解読出来ず、ディスクはただのガラクタになっているという。

 また、仏像とか美術品の場合は、どんどんデジタル複製技術が発達する中で、過去にデジタル収録されたデータが情報量等の点で陳腐化してしまう問題点も孕んでいる。

 音楽でもそうである。レコードからCDとデジタル化された時点で、デジタルコピーを終えた原盤は、ポピュラー音楽の場合は、大部分が破棄されてしまって残っていない。

 しかし、最近の音楽のデジタル再生技術は、CD時代に比べて数100倍、数千倍の情報量を変換記録出来る様になっている。

 この為、幸いにもアナログ原盤が残っている録音が、最新の技術フォーマットでデジタル変換されて、SACD等で発売されている例もある。

 つまり、デジタル収録されたものよりも、アナログ録音されて、それを最新の技術で、デジタル変換したものの方が、情報の質が高いということである。

 また、同時に、デジタルアーカイブの保存メディアフォーマットは、その後のITのハードウェア技術が進歩し続けても、過去のフォーマットにも対応しているという可塑性が最も重要になってくる。

 しかし、現在の国際的なIT技術・産業では、この可塑性については、殆ど考慮されていない。

 この為、大量のデータをデジタル化して蓄積しても、まったく意味をなさないばかりか、原資料が放棄されてしまった場合には、永遠に貴重な文化遺産が失われてしまう可能性もあるということだ。

 卑近な話で申し訳ないが、初期のMACで保存したCDRが、再生ソフトの互換性がない為に判読出来なくなっている例とかそういった状況を想い出してもらいたい。

 こういった点を考慮すれば、原資料は、原資料のままの姿で大切に保存されることが貴重なのだと考える。

S書店で考えたこと。2010/08/30 23:13

 今日は、久しぶりに梅田に出て、共産党系のS書店でだいぶ長い間立ち読みした。

 この本屋、共産主義関連の書籍はいくら立ち読みしても怒られない。

 初期の社会主義から、マルクス、エンゲルス理論、その後の共産主義思想の展開等、全ての書籍、資料が保存されている。

 こうした本を読んでいくと、初期の共産主義というのは、たしかに階級闘争的な部分はあるが、その主義、思想自体には、階層性がないどころか、それを否定するところから主義が出発している点に気づかされる。

 ところが、冷戦時代の旧ソ連、現在の中国、その他の共産圏の国では、資本主義以上の階層社会である。

 日本の共産主義の中心となる思想家は、大抵がブルジョア出身である。難解の経済理論とか共産主義思想を理解し、大衆を指導していくには、エリートが必要という面もあるが、共産主義の受容が階層性を持ったものに変化したと考えることが妥当であろう。

 この点では、釈迦の唱えた仏教思想にも似ている感がある。釈迦の唱えた教えは、美しく合理的で理論的にも全く欠点はなく、純粋な結晶であった。

 それが、バラモン化して、階層性と非合理性によって、本来の性質とはかけ離れてしまったのだ。

 同じ様にマルクスレーニン主義の元となった共産主義思想については、資本主義とか帝国主義の後からでっち上げた理論・思想に比べて、遙かに完成度が高いものであった。

 ところが、仏教にしても共産主義思想についても全く、正反対の方向に思想・理論が歪曲されてしまっている。

 世界のどこにも共産主義の完璧な理論を、その階層性と無縁の境地から純粋に研究可能な高等教育機関は存在しない。

 日本の様に共産主義を指導している連中の大部分が旧帝國大学の出身であるにも関わらず、その様な動きはない。

 創価大学はあっても、日本共産大学は存在しないのは何故だろうか。それは、その主義・思想を信望する連中自体が、階層社会のたまものであり、純粋理論の研究自体が、彼らの存在理由を否定するものだからだと思う。

 日本共産党がその様な矛盾を孕んでいる限り、政権を奪取することは出来ない。むしろ第5身分出身、学歴とは無縁で、「汗、土、血の実践」で経験的に叩き上げて来た、指導者を中心に据えて、民衆中心の活動を行う必要がある。

 これは、法然上人が、アホウに帰れといった考え方にも近いものがある。