S書店で考えたこと。2010/08/30 23:13

 今日は、久しぶりに梅田に出て、共産党系のS書店でだいぶ長い間立ち読みした。

 この本屋、共産主義関連の書籍はいくら立ち読みしても怒られない。

 初期の社会主義から、マルクス、エンゲルス理論、その後の共産主義思想の展開等、全ての書籍、資料が保存されている。

 こうした本を読んでいくと、初期の共産主義というのは、たしかに階級闘争的な部分はあるが、その主義、思想自体には、階層性がないどころか、それを否定するところから主義が出発している点に気づかされる。

 ところが、冷戦時代の旧ソ連、現在の中国、その他の共産圏の国では、資本主義以上の階層社会である。

 日本の共産主義の中心となる思想家は、大抵がブルジョア出身である。難解の経済理論とか共産主義思想を理解し、大衆を指導していくには、エリートが必要という面もあるが、共産主義の受容が階層性を持ったものに変化したと考えることが妥当であろう。

 この点では、釈迦の唱えた仏教思想にも似ている感がある。釈迦の唱えた教えは、美しく合理的で理論的にも全く欠点はなく、純粋な結晶であった。

 それが、バラモン化して、階層性と非合理性によって、本来の性質とはかけ離れてしまったのだ。

 同じ様にマルクスレーニン主義の元となった共産主義思想については、資本主義とか帝国主義の後からでっち上げた理論・思想に比べて、遙かに完成度が高いものであった。

 ところが、仏教にしても共産主義思想についても全く、正反対の方向に思想・理論が歪曲されてしまっている。

 世界のどこにも共産主義の完璧な理論を、その階層性と無縁の境地から純粋に研究可能な高等教育機関は存在しない。

 日本の様に共産主義を指導している連中の大部分が旧帝國大学の出身であるにも関わらず、その様な動きはない。

 創価大学はあっても、日本共産大学は存在しないのは何故だろうか。それは、その主義・思想を信望する連中自体が、階層社会のたまものであり、純粋理論の研究自体が、彼らの存在理由を否定するものだからだと思う。

 日本共産党がその様な矛盾を孕んでいる限り、政権を奪取することは出来ない。むしろ第5身分出身、学歴とは無縁で、「汗、土、血の実践」で経験的に叩き上げて来た、指導者を中心に据えて、民衆中心の活動を行う必要がある。

 これは、法然上人が、アホウに帰れといった考え方にも近いものがある。

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