大乗起信論と存在と時間の関係2008/02/20 01:03

『大乗起信論』(宇井伯寿・高橋直道訳注岩波文庫)

 2007年の11月に第8刷が発行された。1994年に新しい版が起こされ、訳注や解説も新版に改められた。
 非常に良く読まれているという事なのか。
 馬鳴菩薩造(めみょうぼさつつくる)、真諦三蔵訳(しんだいさんぞうやく)
 この書物は、中国で撰述されたか否かも判っていないし、成立年代も不明。一番問題になっているのは、龍樹よりも後か先かという事。
 これは、大きな問題であり、既存の「空理論」に唯識的な解釈を加えて、大乗理論を打ち立てているからである。
 「空論」と「唯識論」とは、対立した考え方であると解釈する先生も、我が佛教大学におられる。
 それは、「空論」と「唯識論」が同じ問題について論証していると仮定している為である。
 しかし、私は、前者は、存在論であり、後者は、現象論であり、実は、異なった要素から成り立つ問題を扱っている理論であると考える。
 「空論」は、教義理論に昇華された仏性自体をも「空」と論じており、全否定の論だとみられがちである。
 この為、敢えて逆説を呈して、従来理論を批判しているとか、現代の仏教学者でも様々な解釈が加えられている。
 例えば『空と無我』(定方晟 講談社現代新書)等がその例である。
 ここで取りあげる『大乗起信論』では、第1章の「顕示正義」でこの問題に決着をつけている。
 まず、唯識の基本には、心真如すなわち心の真実のあり方がある。
 「空」については、「如実空」(ありのままに空)とは、「この世の全ての現象は妄念に過ぎない。」として、「如実不空」(ありのままに不空)とは、心のあり方が、何者にも汚されていない無漏の状態を示すと定義づけている。
 すなわち、「空」の定義は、心理現象の範囲内に設定している。
 唯識とは、全ての世界は、識のみにあるという事で、心理現象の範囲内は、全世界の現象という事になる。
 つまり、「空」理論を現象理論として定義づける事で存在論との矛盾を止揚した訳だ。
 もし、「空」理論を存在論とすれば、この世のあらゆる存在が自体が空であると位置づけられるので、仏性をも否定されてしまうが、「如実空」では、あらゆるこの世の妄念から解脱し、覚りを得た存在(如来)は、存在論を超越していると位置づける新たな絶対肯定論にすり替える事に成功した。
 『大乗起信論』で言う妄念の最大の要因とは、「相」を持つ事である。
 「相」は、物事の変化と密接に関係している時間の流れをも含まれている。 
 如来蔵は、全ての分別・思唯を離れ、「相」を持たないエーテルの存在で全ての生命体が有しているものである。
 大乗の中心となる修行道、すなわち菩薩道とは、あらゆる実在と現象との関わりと打ち切って、生命の総体としての如来蔵に尽くす事であり、一切利他の教えである。
 手塚治虫の劇画『ブッダ』で、本来ならば信仰等をもたないウサギが、飢えた者のために自らを火の中に投ずる行為は、菩薩道の実践に他ならない。
 ウサギの自己犠牲の行為は、次の世の菩薩や如来の前世の姿を時空(相)の隔たりを越えて投影する事を可能にするのである。
 ここにブッダの本来の姿勢であった自我(アートマン)やバラモン的な輪廻の否定や、迷信から理論への脱却に成功した大きな理論的成果である説一切有部に見られた合理性は、全く、その姿を潜めてしまい、本来の仏教が目指したものとは全く異なる神秘宗教へと変質していくのである。
 ややこしい理論ばかりなので、これ以上の説明は控えるが、説一切有部→空論→唯識→大乗思想の流れを考える上で非常に参考になる読み物だと思う。
 この文庫本の構成も漢訳文・読み下し文、現代語訳、注釈、解説と全てが揃っていて、非常に読みやすいテキストだと思う。
 でも、せっかく仏教理論が現代科学にもつながる存在論を説一切有部で打ち立てていたが、現象と存在の関係について理論的な解明を捨ててしまったのは、非常に惜しかったと思う。
 西洋では、エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサールが、現象論を基礎に20世紀哲学の流れを打ち立てた。その後、マルティン・ハイデッガー
が、フッサールの現象論を踏まえて、『存在と時間』を現し、現象と存在との関係を時間という存在に注目して論考を行っている。
 説一切有部では、現象を考えるのに最も重要な要素であった時間論が、空論では、抽象化され、唯識論では、その形跡さえも失われてしまっていく課程を考えるとアビダルマから大乗仏教への道と20世紀哲学が歩んだ道とは、全く逆方向であった事は、興味深い。
 ヘーゲルは、西洋哲学と大乗仏教思想の歩んだ道のりの違いを認めながらも仏教が遙か昔にフッサールや自らと同じ課題、「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」と存在と時間が分けられない点と現象との関わりと矛盾について考えていた事に驚嘆したと言う。
 実は、私は、この書物と並行して『存在と時間』の読破に挑んでいるがこれは、大乗起信論よりもずっと難解な書物である。

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