メディアの魔性2008/01/01 17:04

ブックレビュー『空と無我』でも述べた事だが、「言葉」の持つ限界、過去・現在の位相と因果関係を直接的に区別・説明出来ないという欠点は、「魔性」にもつながる。
 それは、元旦にラジオNIKKEIで放送された下記の放送でも感じ取られた事だ。
ラジオNIKKEIで「万葉の風~ 古の恋歌」
出演:白坂道子氏、深沢彩子氏(朗読)
田中みどり佛教大学教授(万葉紀行、解説、現代語訳)
 ラジオ放送は、音声だけであるが、その世界に聞きいる事は、人々に別の次元にいる様な錯覚をおこさせる。
 額田大君の「あかねさす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる」
 白坂氏の声がラジオのスイッチを入れると、その瞬間、聞こえてくる。それだけで、何か過去の世界に引き戻される様な気がする。
 ここに描かれた人妻への恋は、「野守が見ずや」とある様になにやらスリリングな印象を与えるが、田中みどり教授によれば、帝や皇族の宴席で歌われた場合には、戯れ歌という事で、場を柔らげるといった意味をあったようだが、恋の歌を歌うという事は、それ以外に呪術的な意味もあり、マレビト神を招くという考え方もあったようだ。
 この番組は、万葉集の恋歌を特集したものであるが、万葉集の時代にも更に古い時代の伝説が伝えられていた。
 「われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」
 真間の手児奈伝説は、万葉集以外にも平安朝の大和物語、そして、源氏物語の浮舟入水譚、江戸時代の上田秋成の雨月物語、歌舞伎等にも姿を変え、近代演劇、文学作品にも影響を与えている。
 手児奈が、近代芸術にも大きな影響を与えている点については、次ののWEBが参考になるだろう。
手児奈を基にした芸術作品
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/bunka/tekona/art.htm
 ラジオで朗読された万葉集は、その原典に近く、元々の話が、口承伝説として伝えられていたのが、万葉集に編纂され、ペーパーメディアに変換された。
 それを朗読するという事は、1200年以上の歳月を経て、その言葉の持つ魂が再生されるという事になる。
 この番組では、実際に平城京旧跡万葉の地を訪問した時の様子も収録されている。
 佛大ワールドの田中先生の様子
 http://www.bunet.jp/world/html/19_12/507_sketchbook/index.html
 つまり、口承文芸になる以前の時代、万葉集の時代、極めて、現在に近い過去、そして、ラジオを前にしている自分の時間と空間のアスペクトが同時性を持って出現するという事である。
 これは、『空と無我』の項で述べたトポロジー空間の外側から、私たちが存在している現象世界を見ているのと同じ効果を持っているという。インドの仏教哲学が出来た時点では、口承文芸、紙メディア(文字・絵画)、朗唱はあったが、複数の時代が同時性を持って瞬間的に表現されるという現在のラジオや録音メディアは存在していなかった。もし、この時代にラジオ放送が存在していたら、仏教哲学のあり方も大きく変わっていたかも知れない。
 最後に番組の印象であるが、前回は、ライブの収録放送で、「言霊」という事もあり、表現芸術の一回性の良さが示されており、聴衆の感想もあったので、生き生きと伝わって来た。深沢さんからいただいたMDでは、ステレオ収録されていたので、白坂氏と深沢の交互及び同時の朗読が、「セクエンツァ」(キリスト教聖歌の1形式)の様に響き、その呪術性を強めていた。白坂氏の朗唱、深澤氏の現代語訳、両者の同唱(セクエンツァ)の構成をとる事で、一つの詩句の緊迫感を強めていたが、今回は、恋の歌という事等で、どちらかと言えば並列的な構成となった。
 しかし、元旦の昼下がりの一時に時間をマッタリと過ごさせてくれた事は、良かったと思う。
 ラジオNIKKEIは、ライブストリーミング放送も行っている。
http://www.radionikkei.jp/index.cfm
 私は、「超録」という録音ソフトでストリーミング放送をPCM音声に変換録音し、16bit44000HzでCDに焼き直している。こうしておくと必要な箇所をすぐに再生出来るので便利だ。
http://pino.to/choroku/

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