学燈社「國文学」 ― 2009/06/07 09:52
今日の日経朝刊に学燈社の「國文学」が7月号をもって休刊となる旨の記事が掲載され、最近は、大学の国文学科がどんどん廃止されており、もはや時代の潮流から取り残された学問分野であること、小説(近代文学)が読まれなくなっており、世間一般の「国文学離れ」が進んだ状況等が説明されていた。
「本当かしら?」ということで、学燈社のWEBをみると、この通り休刊の旨のお知らせが。
「國文学」の「國」は、「国」の旧字である。すなわち、「國文学」は、「国文学」よりも古く由緒正しいことになる。それだけ、一層、「時代離れ」していることになる。
国公立大学から**文学科が消えて、私学でも国語・国文学の頽勢を見計らって「日本語・日本文学学科」、「日本語・日本文学コース」に名称変更をしたが、国文学科時代とは、なんら教育内容は変わっていない。
内容に進歩がみられないことので、時代から取り残されている状況は変わらない。
特に国語教育と日本語教育の関係はどうなのか。
国語学の研究は、日本語学の研究と名を変えられたが、あくまでも日本人の目からみた国語の研究である。この為、最近、特にニーズが出てきている外国人の為の日本語教育のテーマについては、教育学科に振られるか、あるいは、日本語・日本文学科では、隅っこに押しやられているが、実は、これが一番、現代社会が求めている日本語・日本文学のニーズなんだと思う。
指導教員が古くさい国語学時代の人が大半で、学生もそれに従って学位論文のテーマを選択させられているが、例えば佛大の通信大学院では、「外世界」の人達が、旧態然とした国語学研究の世界に入り込んできて、「(外国人の為の)日本語教育」といった論文テーマを提出する様になってきている。
しかし、最近では、私学でも国公立に右に倣え、文系弾圧、大学自体の淘汰の嵐が吹き荒れ、当然の様に日本文学科も廃止されるところが増えている。
ところが、佛教大学では、時代の潮流に逆らって日本語・日本文学科がなんと、復活する。
雑誌「國文学」が復刊する様なものである。素晴らしいことであると思う。どうせならば、国語・国文学科に名前を変えて欲しいものだ。
国文学科は大学経営者にとっては、「金喰い虫」である。古代から現代及び国語学の分野まで含めてオールラウンドのまともな学科運営をしようと思えば、最低、6人の教員が必要。更に中古から中世までの和歌、江戸期の俳句、近代詩歌まで含めると、9人体制が必要である。
これだけの教員数を擁している大学は、もはや希少価値である。
佛教大学の場合は、正規教員は、計10名だが、その内、近代以降は、5名と大半を占めている。非常に歪な構成であるが、近代文学に力を入れるというのが、佛教大学の学風である為にしかたがない。近代分野は凄い、小説(1~2名)、文芸評論・思想(1~2名)、詩歌関係(1名)で構成されている。
私が卒業した関大でも在学時には、近代文学関係は、谷沢永一、吉田永宏、浦西和彦先生と計3名おられたが、今は、1名(任用教授を除く)である。ちなみにここは、既に学科も消滅しており、日本語・日本文学専修コースといった位置づけとなっており、上代1、中古2、中世2、近世1、近代1、国語学1の8名体制である。
学科が消滅してしまっているので、最低減必要な8名の教員枠を今後、如何に維持していくかが大変な課題となる。大学のシステムで3回生に入ってからコースを選択するシステムなので、基礎教育も出来ないし、非常に危うい。
教員・後継者の育成も重要な課題である。
最近では、日本文学もしくは、国文学を設置しているところが少なく、国公立大学(国文学科最後の終焉時代)から大学院(博士課程)に進学した最後の世代が、赴任先が見つからず溢れかえっている。そうして、「E~Fランク私学でも良いから。」という人が増えており、残念ながら、東大や京大、阪大卒といった人達は優秀であるから、公募を行った場合には、最後までこうした人が残ってしまう。
優れた学者先生であることは間違いないが、赴任先の大学への愛着もないので、結局、自分勝手なことばかりをやってしまう。結局、大学、学科のユニークな特性が失われて、学科消滅の危機にさらされる。(関大が良い例である。)
学科もサバイバル競争となっている。現在、博士課程におられる学生さん達、特に古典を研究されている方は、晴れて母校の正規教員になれる様に頑張って欲しいと思う。折角、博士課程を出られたのにスーパー、コンビニのレジ打ち、居酒屋の店員等のアルバイトで生活されている方もいらっしゃる。
最後まで生き残れば、それなりのメリットがきっとある筈だ。
「本当かしら?」ということで、学燈社のWEBをみると、この通り休刊の旨のお知らせが。
「國文学」の「國」は、「国」の旧字である。すなわち、「國文学」は、「国文学」よりも古く由緒正しいことになる。それだけ、一層、「時代離れ」していることになる。
国公立大学から**文学科が消えて、私学でも国語・国文学の頽勢を見計らって「日本語・日本文学学科」、「日本語・日本文学コース」に名称変更をしたが、国文学科時代とは、なんら教育内容は変わっていない。
内容に進歩がみられないことので、時代から取り残されている状況は変わらない。
特に国語教育と日本語教育の関係はどうなのか。
国語学の研究は、日本語学の研究と名を変えられたが、あくまでも日本人の目からみた国語の研究である。この為、最近、特にニーズが出てきている外国人の為の日本語教育のテーマについては、教育学科に振られるか、あるいは、日本語・日本文学科では、隅っこに押しやられているが、実は、これが一番、現代社会が求めている日本語・日本文学のニーズなんだと思う。
指導教員が古くさい国語学時代の人が大半で、学生もそれに従って学位論文のテーマを選択させられているが、例えば佛大の通信大学院では、「外世界」の人達が、旧態然とした国語学研究の世界に入り込んできて、「(外国人の為の)日本語教育」といった論文テーマを提出する様になってきている。
しかし、最近では、私学でも国公立に右に倣え、文系弾圧、大学自体の淘汰の嵐が吹き荒れ、当然の様に日本文学科も廃止されるところが増えている。
ところが、佛教大学では、時代の潮流に逆らって日本語・日本文学科がなんと、復活する。
雑誌「國文学」が復刊する様なものである。素晴らしいことであると思う。どうせならば、国語・国文学科に名前を変えて欲しいものだ。
国文学科は大学経営者にとっては、「金喰い虫」である。古代から現代及び国語学の分野まで含めてオールラウンドのまともな学科運営をしようと思えば、最低、6人の教員が必要。更に中古から中世までの和歌、江戸期の俳句、近代詩歌まで含めると、9人体制が必要である。
これだけの教員数を擁している大学は、もはや希少価値である。
佛教大学の場合は、正規教員は、計10名だが、その内、近代以降は、5名と大半を占めている。非常に歪な構成であるが、近代文学に力を入れるというのが、佛教大学の学風である為にしかたがない。近代分野は凄い、小説(1~2名)、文芸評論・思想(1~2名)、詩歌関係(1名)で構成されている。
私が卒業した関大でも在学時には、近代文学関係は、谷沢永一、吉田永宏、浦西和彦先生と計3名おられたが、今は、1名(任用教授を除く)である。ちなみにここは、既に学科も消滅しており、日本語・日本文学専修コースといった位置づけとなっており、上代1、中古2、中世2、近世1、近代1、国語学1の8名体制である。
学科が消滅してしまっているので、最低減必要な8名の教員枠を今後、如何に維持していくかが大変な課題となる。大学のシステムで3回生に入ってからコースを選択するシステムなので、基礎教育も出来ないし、非常に危うい。
教員・後継者の育成も重要な課題である。
最近では、日本文学もしくは、国文学を設置しているところが少なく、国公立大学(国文学科最後の終焉時代)から大学院(博士課程)に進学した最後の世代が、赴任先が見つからず溢れかえっている。そうして、「E~Fランク私学でも良いから。」という人が増えており、残念ながら、東大や京大、阪大卒といった人達は優秀であるから、公募を行った場合には、最後までこうした人が残ってしまう。
優れた学者先生であることは間違いないが、赴任先の大学への愛着もないので、結局、自分勝手なことばかりをやってしまう。結局、大学、学科のユニークな特性が失われて、学科消滅の危機にさらされる。(関大が良い例である。)
学科もサバイバル競争となっている。現在、博士課程におられる学生さん達、特に古典を研究されている方は、晴れて母校の正規教員になれる様に頑張って欲しいと思う。折角、博士課程を出られたのにスーパー、コンビニのレジ打ち、居酒屋の店員等のアルバイトで生活されている方もいらっしゃる。
最後まで生き残れば、それなりのメリットがきっとある筈だ。
おとな600円でお金を払うと「時空通寶」(写真中)という「銭」をもらえる ― 2009/06/07 11:05
昨日(6月6日)に野鳥公園に行った帰路、なにわ海の時空館(写真上)をついでに見学。
あんまり期待していなかったが、非常に内容は面白く、大阪観光の意外な穴場かも。日本人客もいたが、外国人観光客は凄く喜んでいた。
入館料は、おとな600円でお金を払うと「時空通寶」(写真中)という「銭」をもらえるので、それをゲートのコイン差し込み口に挿入すると開いていよいよ見学開始となる。
最初に地下2階までおりるエレベータに乗ると、海面下のトンネルに出る。そこからエレベータで一気に最上階4階まで上る。(写真下 エレベータから見上げた天上)
時空間のパビリオンは、そこからみれば、ガラスの光回折作用の影響で虹の様に輝いているが、中から見れば、コンクリート、スケルトン、ガラスと無機的な別世界を感じさせる。
あんまり期待していなかったが、非常に内容は面白く、大阪観光の意外な穴場かも。日本人客もいたが、外国人観光客は凄く喜んでいた。
入館料は、おとな600円でお金を払うと「時空通寶」(写真中)という「銭」をもらえるので、それをゲートのコイン差し込み口に挿入すると開いていよいよ見学開始となる。
最初に地下2階までおりるエレベータに乗ると、海面下のトンネルに出る。そこからエレベータで一気に最上階4階まで上る。(写真下 エレベータから見上げた天上)
時空間のパビリオンは、そこからみれば、ガラスの光回折作用の影響で虹の様に輝いているが、中から見れば、コンクリート、スケルトン、ガラスと無機的な別世界を感じさせる。
実際に乗船しての印象だが、意外と船内は広い ― 2009/06/07 11:07
4Fはひたすら暑かった。なんせ全てガラス貼りの円形天井で、スケルトンが網の目の様に全体を覆い異次元空間を連想させる。
これは、大昔の帆船の艦首につけられた人形でフィギュアヘッドと呼ばれるもので、鶏とか女神とか色々なキャラクターをみることが出来る。(写真上)
順路に従って1階降りると、大阪の当時の港湾の様子を再現した空間に到着。巨大なジオラマで当時の南港付近が再現されている。(写真中)
更に3階まで降りると、当時の菱垣回船「難波丸」が展示されている。(写真下)(全長約30㍍、排水量90屯、1999年進水式、帆走実験航海を行う。)国会図書館所蔵の「千石積菱垣回船二拾分一図」によって、当時の工法、工具、用材等も忠実に使用して再現されている。実際に帆走性能は優れており、最高速度7ノットを記録、風上70迄走れるという優れた能力を披露した。当時の映像等も収録。また、実際に船の中に入って見学出来る。ちょんまげ姿のお兄ちゃん(係員)がユニークな解説をしてくれる。
実際に乗船しての印象だが、意外と船内は広い。以前、コロンブスのサンタマリア号に乗ったが、それよりももっと広い感じがした。生活空間も合理的に設計されている。巨大な梶や帆柱等に目を奪われる。また、用材もカット等もムクの材料を精密に加工されており、ほぞ組がされており、この辺りの細工の精巧さも面白かった。
これは、大昔の帆船の艦首につけられた人形でフィギュアヘッドと呼ばれるもので、鶏とか女神とか色々なキャラクターをみることが出来る。(写真上)
順路に従って1階降りると、大阪の当時の港湾の様子を再現した空間に到着。巨大なジオラマで当時の南港付近が再現されている。(写真中)
更に3階まで降りると、当時の菱垣回船「難波丸」が展示されている。(写真下)(全長約30㍍、排水量90屯、1999年進水式、帆走実験航海を行う。)国会図書館所蔵の「千石積菱垣回船二拾分一図」によって、当時の工法、工具、用材等も忠実に使用して再現されている。実際に帆走性能は優れており、最高速度7ノットを記録、風上70迄走れるという優れた能力を披露した。当時の映像等も収録。また、実際に船の中に入って見学出来る。ちょんまげ姿のお兄ちゃん(係員)がユニークな解説をしてくれる。
実際に乗船しての印象だが、意外と船内は広い。以前、コロンブスのサンタマリア号に乗ったが、それよりももっと広い感じがした。生活空間も合理的に設計されている。巨大な梶や帆柱等に目を奪われる。また、用材もカット等もムクの材料を精密に加工されており、ほぞ組がされており、この辺りの細工の精巧さも面白かった。
大阪市が作った博物館施設としては、例外的に非常に面白い ― 2009/06/07 11:08
甲板から船倉に降りたところ(写真上)、実際の積み荷スペースはかなり広い。手前側にキャビンがあり、金比羅大明神が上、下に仏壇が設置されている。航海の安全を金比羅さんとご先祖様にお祈りした。(写真上)
和船は、洋式船の様にキール(竜骨)はなく、その替わりに航(かわら)いう構造材が船底の基礎部分を貫通する方法で強度を維持している。大型船は、複数の木材を寄せ木しているが、小型船は、単一の用材を加工される。この為、小型船は、用材の大きさに船の大きさは左右されるが、この様に寄せ木を行うことで大きな船も造れる様になった。(写真中)
これは、上面は側舷に接する部分の構造材でこちらも寄せ木を更に組み合わせて構造化し、強度を上げている。木の組合せ方を工夫すること精緻な作業の為に防水性は非常に優れていたようだ。(写真下)
私は幼時、小豆島に預けられていたが、毎日の様に船大工さんの元に通っていた。その時に建造過程を目の当たりにしたが、はやり、航(かわら)から側舷、更に船主、船尾の仕上げ方の順序は変わっていない。航(かわら)にはアール(曲線)がつけられるが、単航船(たんこうせん)の場合には、アールは、木材を炙って曲げる作業が必要になる。この作業は、みものであった。
船大工さんが、「洋式船もつくっているところがあるからみてみなよ。」と連れていってくれた草壁港の造船所では、こちらは、巨大な木造船(洋式)が建造されており、その独特の形状を持ったキールやスケルトン構造、エンジンが載る基盤の部分の分厚い強度設計等見飽きなかったものだ。
◎今回のなにわ海の時空館の見学は、こうした幼い時の出来事を想い出させてくれた。大阪市が作った博物館施設としては、例外的に非常に面白く、あまり、知られていないようだから、是非、近所の方は、ご見学をお薦めしたい。
http://www.jikukan.or.jp/nani/01.html
Lumix-G1で撮影した他の写真は、アルバムへ
http://www.picmate.jp/156433488/albums/284683/
和船は、洋式船の様にキール(竜骨)はなく、その替わりに航(かわら)いう構造材が船底の基礎部分を貫通する方法で強度を維持している。大型船は、複数の木材を寄せ木しているが、小型船は、単一の用材を加工される。この為、小型船は、用材の大きさに船の大きさは左右されるが、この様に寄せ木を行うことで大きな船も造れる様になった。(写真中)
これは、上面は側舷に接する部分の構造材でこちらも寄せ木を更に組み合わせて構造化し、強度を上げている。木の組合せ方を工夫すること精緻な作業の為に防水性は非常に優れていたようだ。(写真下)
私は幼時、小豆島に預けられていたが、毎日の様に船大工さんの元に通っていた。その時に建造過程を目の当たりにしたが、はやり、航(かわら)から側舷、更に船主、船尾の仕上げ方の順序は変わっていない。航(かわら)にはアール(曲線)がつけられるが、単航船(たんこうせん)の場合には、アールは、木材を炙って曲げる作業が必要になる。この作業は、みものであった。
船大工さんが、「洋式船もつくっているところがあるからみてみなよ。」と連れていってくれた草壁港の造船所では、こちらは、巨大な木造船(洋式)が建造されており、その独特の形状を持ったキールやスケルトン構造、エンジンが載る基盤の部分の分厚い強度設計等見飽きなかったものだ。
◎今回のなにわ海の時空館の見学は、こうした幼い時の出来事を想い出させてくれた。大阪市が作った博物館施設としては、例外的に非常に面白く、あまり、知られていないようだから、是非、近所の方は、ご見学をお薦めしたい。
http://www.jikukan.or.jp/nani/01.html
Lumix-G1で撮影した他の写真は、アルバムへ
http://www.picmate.jp/156433488/albums/284683/
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