日本人の心のふるさととしての「言葉」と「歌」2009/07/16 00:19

 素戔嗚尊はどんな神であったのだろうか。古事記神代記に描かれた神々の世界の中で、素戔嗚尊は、唯一、「言葉」としての「肉声」が記録された神であり、その言葉は大きな意義を持っている。

 伝記・伝説・物語において登場人物の「言葉」が大きな意味を持っていることは、私の修士論文「源氏物語 光源氏の言葉」でも書いたが、古事記、それも神代記の中で、スセリヒメと一緒に逃げた大国主(オホナムヂ)にかけた言葉である、「その汝が持てる生太刀、生弓矢を持ちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追ひ伏せ、また、河の瀬に追ひはらひて、おれ大國主神となり、また宇都志國玉神となりて、その我が女須世理毘賣を嫡妻として、宇迦山の山本に底つ石根に宮柱太しり、高天原に氷ぎたかしりて居れ。この奴。」が、この神代記を通じて最も重要な「言葉」であるだろう。(写真は、私が所持する真福寺写本の該当部分)
 根の堅州國(大地・黄泉の国)の王である素戔嗚尊が、オホナムヂを大国主命(国津神の王)として認めたことを意味する言葉である。
 須世理の父親が大国主命は婿として認めた父親の言葉でもある。(成人儀礼にも関わりだろうのだろう。)

 これは、すなわち、出雲国の誕生の瞬間でもある。不思議な事に古事記には、出雲国の誕生のありさまは、「神の言葉」を持って劇的に描かれるが、天照大神や敷島の大和国の誕生については、この様な感動的は言葉の叙述はみられない。

 天照大神は、古事記には、様々な叙述がみられるが、素戔嗚尊の様な人間的な感情の吐露はみられない。

 私は、国語学の演習で、「高し」を取りあげて、この古事記の「言葉」を見つけた時に大きな感動を得て、「光源氏の言葉」のモチーフを思いついたのである。光源氏も若菜下の巻で、物語の主人公としての象徴的な言葉、それは、「モノノアハレ」を象徴する言葉を発している。

 男となった大国主命は、この後、例の「八千矛の...」の歌を唱うが、これも、神代記の中では、重要な歌謡である。この歌は、実は、父神素戔嗚尊の言葉への返歌ともいうべき内容の素朴な妻よばいの歌である。それは、日本人の素直な心のふるさとと言えるの大らかな歌である。

 昨日は、私の誕生日であったが、こんな風に一人前にならぬ子供のままで、50歳近くの年齢に達してしまった自分の境遇と照らし合わせると、「生きる」ということの意味が私にはあったのだろうかと思いたくもなった。

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