俳句ってしんどい2011/02/24 23:13

 関西句会の添削が返って来てから、俳句が急に嫌になった。

 なんとなく、つまらなくなってしまった。写生写生といいながら、結局、月並みの句を作っているなんて、偽善だと思う。

 やっぱり、実際にみてもいないのに、響きの良さそうなことば、有名な事物、時節にあった風物等を適当に組み合わせて俳句にするなんてと思った。

 実際、元町を歩いていた時に目に入ったのは、肉饅頭である。肉まんと訂正されていたが、肉饅頭、肉まん、豚まん、全部、違うものである。それを知らないので、こんな訂正がされてしまう。

 元町の商店街で、実際に桜餅をこねている人が朝にはいた。手作りの和菓子店だし。あるいは、呉服店では、なくて、着物屋さんで、春の道行きコートが販売されていた。色とりどりに重ねて売られていた。あるいは、実際に海岸の公園で出遭った親子連れの自転車、トランペット奏者、そういったものを実際に詠んでいるのに。

 六甲山の雲の動きがどうのこうのと詠んでいる人がいたが、実際に、あんなところから六甲山の雲の動きがみえたのだろうか。

 僕は、そんなに目が良くないので見えなかったが、詠んだ人は、凄く目が良いので、本当に見えたから、あんな句を詠んだのだと考えたい。

 つまらないものしか、実際になくても、そのつまらないもので俳句を作るから面白いのではないかと考えてしまう。そうであれば、句会としては、可でも、実際にみていないものを詠む吟行等は、あり得ないと思う。

 一番、疑問に感じるのは、あんまり名所旧跡、有名人、故実等を気楽に組合せ過ぎることで、俳句の場合は、これに季語を適当に取り合わせれば、インスタント食品の様に句が出来てしまう。

 これが、うまい人が作れば、結構、特選句になってしまうので、こういった点が奇妙だと思う。

 病床六尺で、最後の方に子規が庭を俳句でスケッチしているが、たしかに、本当に目に入った、一見、つまらないものでも大事に四季の句として読み込んでいる。病床に横たわっている人ならば、名句とか、故実の引用等で句を作っても許されるが、子規は、決してそんなことをしていない。

 漱石の俳句は、さすが小説家であり、色彩感は、子規よりも上で、「作られた句」も見事であるが、子規の様な、侘び寂びが感じられない。

 桃子先生の俳句の本で、俳句は、点数とか評価を目的に作るのではなくて、折々の日常・人生の一コマ一コマを俳句で綴っていくことに意味があるとおっしゃられていて、その通りだが、実際の句会は、やはり,得点を狙って作られたというか、体裁を整えて作られた俳句が多いと思う。

 そういったものをうまく組み合わせるのが「技巧」なんだろうか。

 どこまでが、「技巧」でどこまでが、「特性・個性」として認められるのか、添削句をみて考えさせられてしまった。

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