スクーリングの帰路に考えた事12007/12/02 23:05

まだ、銀杏の残る佛大前。IXYDIGITAL70で撮影
 今日は、佛教大学の冬季スクーリングだった。物語絵巻や定朝等、藤原氏と関係の深い文化事例を中心に学ぶことが出来て深い感銘を受けた。
 帰路の電車の中で、色々な思索にふけったが、その一部を2回に分けて書いてみる。
 藤原氏の日本文化史の中での最大の特色としては、やはり、日本で初めて氏族による文化ブロジェクトを実現させた事が挙げられる。
 古代社会における文化ブロジェクトは、現代社会の経済プロジェクトに匹敵する重要な役割を果たしていた。
 藤原氏以前は、律令政治の中で、天皇家を中心とした官僚システムで文化プロジェクトが運用されていたが、平安時代以降は、中央集権制が緩み、藤原氏がその中核を担う様になっていく。
 例えば、以前、女樂(舞楽)を調査した事がある。節会(大嘗祭)に舞われる舞楽は、内裏寝殿の北東側にあった内教房と言う役所が運営し、予算も皇室から計上されていた。
 しかし、三代実録を読んでいくと、既に、10世紀の初め頃には、何度も天災に見舞われ、衣装や太鼓等の大きな楽器が失われ、それを補充する予算もなかった。
 こうした、状況に応じて藤原氏摂関家が予算を出す様になり、宮中舞楽も「私楽」としての性格を持つ様になる。
 この内教房は、古今和歌集の編纂にもかかわった紀貫之の祖先等も関係し、宮中サロンの一角としての役割も担っていたが、藤原氏の台頭により、文化面での摂関の独占が行われる様になっていく。
 紫式部日記にも実は、大嘗祭の女樂に関する記述が見られるが、これは、偶然ではないと考える。
 その理由として、源氏物語の若菜下の巻にはこうした女楽を思わせる紫の上、女三宮等の光源氏の私邸六条院での女性のみの合奏の場面があるからだ。
 女樂が終わった後で、光源氏が古今和歌集の序文にこと寄せた言葉を発する場面があるが、これは、こうした文化的な情勢の変化が彼の言葉に象徴されているのではないかと私は考える。
 ここでの彼の言葉には、本来伝えられる文化的伝統があべこべに伝えられてしまった事を暗示させられる部分がある。これは、具体的には、女三宮の降嫁、もっと深い意味では、本来、宮家(皇室)が引き継ぐべき、文化伝統を源氏が引き継いでいると言う事、あるいは、詩教、毛詩国風序文に見られる賢女(賢妻)の本来あるべき姿があり、つまり、本来は、女三宮が様々な紫の上等に思いやりをかける事が本来の正妻のあり方なのに全く逆の状況となっている皮肉等。実に多くの暗喩が彼の言葉に見られる。
 実は、こうした言葉の背景には、実は、源氏物語が藤原氏による文化プロジェクトとして企画されたと言う事情が見えてくる。
 私が、行ったコンピュータによる源氏物語全巻の統計調査の結果、少なくとも数人の人々によって執筆されている可能性が高い事が判った。
 更に、源氏物語の作者、紫式部が書いたとされる部分は、文章統計学の手法を駆使して、紫式部日記の文章と統計的に見て類似性が指摘出来る部分は、若紫巻、夕顔巻等の本の一部分であると言う事が高い確率で言える事を発見した。(佛大国文学会で発表した。)
 更に、紫式部日記自体が、こうした藤原氏による文化プロダクションに参画していた紫式部の公式ブログの様なものであったと考える。
 こうして、藤原氏の財力を背景に、王朝文化を代表する物語作品の企画が実行された。この物語は、藤原一族の女性の規範として読まれていった。
 その後、100年以上を経て、院政期に入って国宝源氏物語絵巻が制作されたが、それには、藤原忠通と大きなつながりを持っていた村上源氏・源師時が関わりを持っていた事が知られる。つまり、源氏物語絵巻も藤原氏の物語事業の記念モニュメント的な性格を持つものなのだ。
 こうした藤原氏の物語メディアプロジェクトの最後を飾るのが、春日権記絵巻である。これも藤原氏の歴史的優位性を象徴する様な説話が長編として編まれている。14世紀の建武の新政の直前に企画されたと言う文化的状況が如実に反映されている。

スクーリングの帰路に考えた事22007/12/02 23:49

図書館前の中庭の紅葉は、今年は特に綺麗。IXYDIGITAL70で撮影
 藤原氏は、平等院や法性寺、鳥羽離宮等の様々な寝殿造りの庭園を持った浄土大寺院を造営していく。
 この様な浄土大寺院の造営は、財力のみならず、文化的な総合力が必要になってくる。
 特に浄土教寺院の場合は、阿弥陀如来等の仏像以外に荘厳を含めた多様な工芸技術を要求される。
 古代前期には、律令政治の元で国家が事業として行っていた大規模寺院の造営は、藤原氏の手にとって換わられる。
 これらの藤原氏の造寺、造仏プロジェクトを支えていたのが、仏師集団である。
 最初に登場した康尚は、定朝の父であるが、彼の代表作である京都同聚院の不動明王像は、画期的な作品であった。
 特に顔の彫りの精緻さ、均衡の採れた体躯、表情の気品の高さは、同時代の作品群の中で、群を抜いている。
 彫刻としての立体性の強調よりも、その質感、マテリアルを重視した点で異彩を放っている。
 例えば、ベロッキオ作の聖画の中で、特別な光彩を放つ、ダ・ビンチが徒弟時代に描いた天使像の様に異様な程の才能を感じる。
 つまり、康尚は、天才肌の仏師であったと言えよう。
 彼の息子の定朝は、父親の仕事を手伝う内に頭角を現し、法成寺金堂の大日如来像、五大明王の造像の功績で法橋に任じられるが、これは、仏師が僧綱位につく事は、当時としては異例の昇格・待遇であった。
 藤原道長が、この位を定朝に与えた理由は、明らかではないが、藤原氏による造像・寺院プロジェクトはその財力を誇示する為に益々巨大化していった。
 寄せ木造りの大がかりの仏像を一方で、繊細さを要求される荘厳と一緒に纏めるには、仏師グループ全体の緻密な連携が必要になる。彼のこうしたプロジェクトリーダーシップが評価されたのだと私は考える。
 藤原氏が、こうした文化事業の組織的実践に高い評価を与えて重視して来た事は、前回書いた通りである。それだからこそ、その頭領である定朝の組織運営力を評価されて高い地位を得る事が出来たのだろう。
 今、平等院鳳凰堂の阿弥陀仏は、最近修復されて美しく荘厳な姿を見せている。
 でも、私が一番好きななのは、雲中供養仏である。平等院ミュージアムにある一体一体を眺めてみると、「ああ、あの不動明王像」が。」と思わずつぶやいていた。
 時代を超越した精緻な彫刻技術は、定朝の父、康尚が発明したものであり、定朝が率いる仏師集団の中に康尚の技術を受け継いだ制作者がいた事をうかがわせる。
 しかし、その技術伝承もどうやら1世代で終わってしまったらしく、その後は、精緻な彫刻技術は姿を消してしまったようだ。
 藤原氏による造寺プロジェクトも13世紀の平等院の修築を契機に全く衰微してしまうのだ。