「努力義務」からやがて強制へと、禁煙と同じ道が....2009/03/31 09:03

 青少年をインターネット悪用の被害から守る為に、フィルターリングが「努力義務」と情報やサーバー業界にはされる法律が成立している。「努力義務」は、例の喫煙防止条例等と同様に半ば、強制的にいずれは、強制されることになるだろう。

 たしかに有害情報が氾濫している状況から青少年を守ることは必要だと思うが、その「フィルターリング」という行為自体に危険性を感じる。

 フィルターにかけられる情報とそうでない情報を分類することは、事実上の検閲行為であり、フィルター項目が増えれば増える程、規制が強化される仕組みとなっている。

 また、この法律が成立する時点で、民意が問われたのか、また、実際に、どの程度、青少年に有害情報が広がっていて、それが、犯罪や被害者になることに結びついているのかが問題になる。

 犯罪や被害の発生頻度が、他の社会的に有害性を持った因子(この規定も非常にあいまいで危険だが)によるものと比べて、高いのか、統計調査等を含めて明らかにする必要がある。(きっと現代社会学や臨床社会学の分野では研究発表がされているのだろうが、こうした学識経験者の意見が参考にされていないようである。)

 情報産業もフィルターリングには最初、難色を示した。

 実現が非常に難しいからで、語句等で有害情報化見分ける方法もあるが、自動的に行われる迷惑メールフィルターで判る様に、実際には、重要な情報が有害情報とされてしまう可能性もある。

 悪意がない情報提供者が有害情報提供者(犯罪者)にされてしまう可能性もある。また、人為的な作業でフィルターリングを行うのは、無理である。それで申請→審査制度ということになるが、これは、「お願いする側と許可(認可)する側」という社会的強者、弱者関係が成立してしまうので、非常に危険な状態である。

 社会病理学の立場からみれば、有害情報そのものや、そのものを利用、閲覧する段階では、「逸脱」とは定義し難く、その有害情報によって、公的秩序や規範を混乱させる行為と「因果関係」にあると、判定されて初めて、「逸脱行為」と定義づけられて、社会病理の対象となり、犯罪にかかわる場合は、介入もやむを得ないことになる。しかし、その場合も、強制的な排除ではなくて、その様な病理を産み出した社会の構造的欠陥を明らかにし、本質的な対処・治療を行うのである。
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 戦前も文学・思想の統制が行われたが、実際に、官憲が検閲、発禁停止にした例よりも、業界や出版社による自粛・自主審査・自主検閲によるものの割合が圧倒的に多く、確固とした言論弾圧へとつながっていくのである。

 情報の善・悪、有害・無害の判断を行う能力を育成することも必要であり、それを大人の立場から強制的に振り分けると、そういった青少年が「大人」になった時に情報の善・悪を区別する能力が育たなくなるので、「成人」後も「オカミ」のいいなりになる様にしかなくなる。

 そうして、政府の本来の狙いである国民の言論・情報のコントロールが可能な社会の実現に近づいていくのである。

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