四十雀が昨日から見えなくなった2009/07/01 23:08

ここへ来て、また、足の痛みがぶり返して跋扈に逆戻り。

今日は、大変な暴風雨がカサが逆さまになるし、帰宅時にはびしょぬれになる等、台風の時よりもひどい有様。

家の前の急さかを足を引きずりながら歩く惨めな姿を想像して欲しい。

自宅の庭の電柱に巣作りをしていた四十雀が昨日から見えなくなった。どこかに避難しているのだろう。嵐が来る前から彼らは、こんな風になるのを予知する能力があるのかもしれない。

また、無事な姿をみたいが、もう、無理なんだろうか。
今日、佛大通信院でご一緒したKさんという女性から句集をいただいた。ご年配(失礼)の筈だけれども、モダンな句を詠まれる。

少し、気になったのは、言葉のイメージが俳句の外に染みだして、それが、句の対象となる景物まで染めているのが幾つかあった。

そうなると、結局、自慰的な世界に陥ってしまうので、言葉のイメージは大切だけれども、やはり、詠まれる対象と俳句の言葉のイメージは、別々に独立したものでなければならないと思う。

言葉のイメージが優れた俳人は幾つもいらっしゃるが、どうどう巡りになってしまっている人はそれ程、多くはない。これが個性ということなれば、そうなんだろうけれども。

Kさんは船団の会に所属されており、坪内先生も目をかけておられる優れた人なので、私には、その様に言う資格はないが、読んでもらう為に私の家までわざわざ送って下さったのだから、意見くらいは言ってもよいかも。

Kさんと私が、昨年の9月の佛大の卒業式で記念撮影した写真も持っているし、佛大通信11月号にもそのお姿が載っている。(この11月号は、私の論文のタイトルが掲載されているというので、大学から送っていただいたものである。

それにしても佛大の通信大学院での活動が、今の充実した知的生活に結実している方が、案外、多いので、自分の様な人間は、駄目だと思ってしまいがちになる。(事実、その様に言われた佛大の先生もおられ、その通りだと私も妙に納得している次第。)

最近、私は、自分の人生のグレードを下流でもないと思うようになっている。今の心境・境遇は、まさに「川柳」ではなくて、「賤流」であると思う。

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