年代もののニコンであったが、よく手入れされていて、カメラの持ち方等をみて、この人は、カメラマンだと思った2010/03/28 10:39

 今日の毎日新聞朝刊に「焼けたカメラ工事現場から」という記事が掲載されていた。

 91年6月に発生した雲仙・普賢岳の取材カメラマンが火砕流に飲み込まれて犠牲になったが、そのカメラマンの所有とみられるFM2が発見されたとのこと。

 この犠牲になった事故の状況について、当時、現場にいたカメラマンに直接、話を聴く機会があった。

 96~97年頃に、仕事の取材で鹿児島県志布志に向かうフェリーに乗船した。そのカメラマンにお目にかかったのは、帰阪の時に乗船していた便であった。

 飲んだくれていて、あんまり風呂に入っていない様な匂いがしたので、遠慮していたが、フェリーでビールを飲んでいたら、向こうから近づいてきた。

 いろいろとお話をするうちにそのおじさんは、カメラを取り出して、1枚撮らせてくれといった。かなり、年代もののニコンであったが、よく手入れされていて、カメラの持ち方等をみて、この人は、カメラマンだと思った。

 名刺をくれた、名前は、Mさんという。

 いろいろと、取材撮影のお話をしてくれる。彼は、どこか南国の島のFという情報誌のカメラマンということだが、実際には、フリーのカメラマンで、大災害とか事件、発見等の現場に駆けつけて、決定的瞬間を撮影して、新聞社や報道機関に持ち込んでお金をもらって生活している。

 正直いって、彼の風体からは、カメラマンであると信じられなかったが、コウノトリの撮影とか、そういった実際の仕事の話になると、急に目が生き生きとしてくるので、本物だと思った。

 91年6月の普賢岳の火砕流の時も、彼は、現場の一番危険なところにいた。一番、迫力ある写真を撮らないと写真が売れないので、当然だ。

 普賢岳の噴火が一番、よく見えるその場所は、山頂から伸びる谷底に面した地点であった。そこに数名のカメラマン、新聞関係も含めて居合わせていたという。

 突然、ゴォーっという音が聞こえたかと思うと、洪水のような火砕流が流れてきた。本当に逃げる間もなかったという。

 谷から上に上がる道らしきものはなかったが、必死に崖にしがみついて、1人が上に出ることに成功したので、その人の右手につかまって、次の人が、3番目にMさんが、Mさんも右手を伸ばして、後のカメラマンを引き上げようとしていたが、4番目にいたカメラマンの手が離れて、火砕流に飲み込まれてしまったという。

 現場からの突然の避難で、カメラバック、機材等のあらかたを失って、命からがら生き延びたという。

 Mさんと、その後には、逢ったことはない。「そんなつまらない仕事なんかしていないで、ワシと一緒に各地を撮影して回らないか。」と誘われたが、本気にはしなかった。

 Mさんは、元気だろうか。今、この記事を眺めて、当時のことを思い出した。

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