自分で作品を作らない人の解釈と研究は、自分でも作品を作る人とかなり、認識のギャップがあると思う(修正)2011/02/17 20:23

 自分で俳句を作るようになって、良くも悪しくも自分は変わった。

 大学を卒業後、社会に出て佛大で学びながら平安朝文学・絵画について3つばかりの論文を書いたが、自分で作品を作らない人の解釈と研究は、自分でも作品を作る人とかなり、認識のギャップがあると思う。
 
 実際に作品を作りながら私は、詩歌については、その限られた制約の中で、作者の言いたいことを織り込んでいるので、文字になっていない部分までも、深い洞察と理解が必要である。ただ単に文字面に即した解釈を行っても意味として成り立つが、それでは、作者の本当に言いたい部分が汲み取れない部分があるとの考えを持つに至った。


 写真は、「秀家の無念」の地下深く埋もれてしまった彼が築城した時の石垣である。

 私のような程度の低い人間の作品でもこんな訳なので、偉大な作者の作品では、もっともっと深いメタファーが存在している筈である。そんなことを考えてみると、私が独りよがりの考えを述べた「大和物語の切断形式について」の論文も、結局は、俳句の世界につながる物語の世界を模索したものであるが、もう少し、この物語の作中人物、和歌、作家の心情まで読み取って、その表現手法について考えてみることが必要であったと思う。

追記:1晩考えたら、やはり、「春の城」の方が、良いと思った。
    実にいい加減なものである。

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