ようやく白梅が開花2011/02/26 10:03

 昨日は、佛大四条センターに黒田先生の講義を聴きに出かけてから、帰宅してから体調が悪くなり、そのまま寝込んでしまった。朝、実家で目覚めると、白梅が数輪ようやく開花していた。

○廃駅の彼方に幽か春の海

○白梅のようやく咲きぬ朝の庭

○鉢の木の故事も忘れて梅の花

○水仙の咲き乱れたる島の宿

○おのころの島影霞み風優し

俳句ってしんどい2011/02/24 23:13

 関西句会の添削が返って来てから、俳句が急に嫌になった。

 なんとなく、つまらなくなってしまった。写生写生といいながら、結局、月並みの句を作っているなんて、偽善だと思う。

 やっぱり、実際にみてもいないのに、響きの良さそうなことば、有名な事物、時節にあった風物等を適当に組み合わせて俳句にするなんてと思った。

 実際、元町を歩いていた時に目に入ったのは、肉饅頭である。肉まんと訂正されていたが、肉饅頭、肉まん、豚まん、全部、違うものである。それを知らないので、こんな訂正がされてしまう。

 元町の商店街で、実際に桜餅をこねている人が朝にはいた。手作りの和菓子店だし。あるいは、呉服店では、なくて、着物屋さんで、春の道行きコートが販売されていた。色とりどりに重ねて売られていた。あるいは、実際に海岸の公園で出遭った親子連れの自転車、トランペット奏者、そういったものを実際に詠んでいるのに。

 六甲山の雲の動きがどうのこうのと詠んでいる人がいたが、実際に、あんなところから六甲山の雲の動きがみえたのだろうか。

 僕は、そんなに目が良くないので見えなかったが、詠んだ人は、凄く目が良いので、本当に見えたから、あんな句を詠んだのだと考えたい。

 つまらないものしか、実際になくても、そのつまらないもので俳句を作るから面白いのではないかと考えてしまう。そうであれば、句会としては、可でも、実際にみていないものを詠む吟行等は、あり得ないと思う。

 一番、疑問に感じるのは、あんまり名所旧跡、有名人、故実等を気楽に組合せ過ぎることで、俳句の場合は、これに季語を適当に取り合わせれば、インスタント食品の様に句が出来てしまう。

 これが、うまい人が作れば、結構、特選句になってしまうので、こういった点が奇妙だと思う。

 病床六尺で、最後の方に子規が庭を俳句でスケッチしているが、たしかに、本当に目に入った、一見、つまらないものでも大事に四季の句として読み込んでいる。病床に横たわっている人ならば、名句とか、故実の引用等で句を作っても許されるが、子規は、決してそんなことをしていない。

 漱石の俳句は、さすが小説家であり、色彩感は、子規よりも上で、「作られた句」も見事であるが、子規の様な、侘び寂びが感じられない。

 桃子先生の俳句の本で、俳句は、点数とか評価を目的に作るのではなくて、折々の日常・人生の一コマ一コマを俳句で綴っていくことに意味があるとおっしゃられていて、その通りだが、実際の句会は、やはり,得点を狙って作られたというか、体裁を整えて作られた俳句が多いと思う。

 そういったものをうまく組み合わせるのが「技巧」なんだろうか。

 どこまでが、「技巧」でどこまでが、「特性・個性」として認められるのか、添削句をみて考えさせられてしまった。

やはり、俳句って難しい!2011/02/21 23:18

関西句会の桃子先生の添削と評価が返ってきた。

封筒を開けて自分の句の評価をみて、唖然。



△肉饅頭ムフフの春や中華街

「肉饅に」の方がマシという。当日は、○2つだったが、評価は低い。僕も大したことはないと思っている。

△占師春歴前に目をつぶり
 
 春歴前に目を閉じ座る占師

 といった様に占い師が後に来た方が良いという。僕は、どうかなと思う。

○春の海トランペットの音高く

 添削なし。この句もつまらないと思う。無難だから、○をもらったんだろう。

△桜餅こねる手先に湯気立ちて

        「湯気立てり」



選外句
 早春の親子自転車風切りて
 藍染めのトートバックも春の柄
?着物屋の道行きコート春重ね

 「重ね」と僕は書いたが、清書する人の判断で、かさねと書かれたので、重ねなのか、襲衣なのか判らないという評価。 

という訳で、◎は、一個もなし、やはり、俳句って難しい!

梅も1週間ぶりにみたら、七分咲き位にまでになっている2011/02/20 10:42

実家の梅も1週間ぶりにみたら、七分咲き位にまでになっている。白梅は咲いていない。

白梅、紅梅が揃って咲くのが良いと思うが、なかなかうまくいかない。

○梅が香の日々まさりゆく窓辺かな

一昨日に出張から帰ってきて、そのまま深夜まで仕事、昨日の午前中も仕事。

ようやく童子投句の選定と清書が出来た。
すっきりした気分で近くのポストまで谷底の道を歩いていくと、ようやく春の風情。

秀家の句を作り直した

○秀家のオラシオ絶えて春の城

 豪姫はキリシタンであったので、秀家も改宗したという。

○初雷や干し物しまいて空仰ぐ

岡山吟行句追加2011/02/19 11:17

 岡山吟行の句帳より、5句作ってみた。
 
 おぼろ月黒装束の城消えぬ
 うしろより桃の香りの女来て
 春時雨市電のレール鈍色に
 望楼の吉備の山河霞立つ 
 春雷に大日如来の顔優し

岡山城吟行2011/02/17 18:54

 パソコンのトラブルで、まったく、時間に余裕がなくなり、吟行どころではなかった。

 ある人から岡山城は、あんまり題材になるものが少ないといわれていたが、そのとおりであった。

 秀家の祈りは遠く春の城
 手袋の片方残るお堀端
 浅春の天主礎石は苔青し
 春めきて望楼の月影深し
 虫出でて鳥啼く声の喧し
 雨温み唯我独尊時近し
 蝋梅の香りや何処城の庭
 吉備の国女(ひと)は麗し桃の肌

 あんまり、よい句はできなかった。

窓開けて外は一面銀世界(訂正)2011/02/15 08:40

  今日の朝は、窓を開けたら、全く綺麗な銀世界になっている。

 早くも朝日が射し始めると雪溶けでバサバサと音がし始める。

 1階のダイニングで、朝食の準備をしていると、ジョウビタキ(キビタキではなかったです。)が一羽やってきて、すぐ側の垣根にとまって何度もお辞儀をする。

 しかし、本当に凄いと思う。もう1日同じ様な日が続いたら、路面が凍結してアイスバーンになるところだが、幸い、天候は回復に向かっているようだ。

 朝日射し雪解け枝は蠢きて
 シベリアの漂鳥来たる雪の朝

俳句データベース2011/02/14 21:35

 先日の句会で、「あればよいなぁ」と思ったのが俳句データベース。

 なんせ、人間の考えることは似たようなもので、昨日の句会でも類似表現というか、すこし、あぶないのがあったので、出句する前にチェックしておいた方が良いかも。

 それで、俳句のデータベースがあればと思ったら、ありました。
 現代俳句協会の俳句データベース
 http://www.haiku-data.jp/
 
 ネットでしか検索できないけれど、世の中モバイルWIFIの時代なので、むしろ特別なソフトも必要無いから、この方が便利。
 
 佐々木敏光氏の「現代俳句抄」(収録句数約 5000 句)を基礎データとし、順次、現代俳句協会IT部で追加して」ゆくものという。

 現代俳句協会だって....
 ギョギョ!!俳句に嵌れば嵌るほど、「伝統俳句」から離れていく。

 トランペットで検索してみると1件該当

 クラリネットは、2件、その1句が、

 ○クラリネット光のごとく南風にきこゆ

 とある。春の海と光についての指摘があったが、その音色というのは、クラリネットの方が光をイメージさせられるのかな。

 トランペットというのは、「死」に関係がある時に出てくる楽器で、例えば、マーラーの交響曲第5番では、トランペットの独奏が序奏が始まって、音楽は高まって、あのベニスに死すのアダージェットになっていく。

 退嬰的な死へのイメージというのが、この楽器の音色が連想されるのかも。クラリネットの方が、明るい、海のイメージ。

 春の海をあの琴と尺八の名曲がイメージさせられるとすれば、早春の清々しく、暖かみを感じさせられる光のイメージなので、クラリネットの方が、相応しい。

 まさに素粒子先生がおっしゃた通りだと思う。
 実は、吟行では、実際にトランペットが演奏されていたのだが、それは、ジャズバンドのトランペットのパート練習で、本当に射すような鋭い響きとか、海岸の強い日光に黄金色に楽器が輝いていたこと。更に、もう野外練習が可能になっている等、季節性が感じられたんで俳句にした訳。

おうぶの里は積雪15~20㎝2011/02/14 20:49

 今日は、今シーズン一番の大雪で、おうぶの里は積雪15~20㎝
 鵯越えのトンネルを抜けると雪の降り方は全く違う。

 まるで北陸の国に来たよう。しかし、土地の人は慣れたもので、別に驚きもしない。

☆雪の五句

有馬路の隧道抜けて雪深し
ボコバコと雪踏み童子母追いて
大雪を喜ぶ子供泣く大人
雪道を黄色い傘がはしゃぎおり
雪降りて足跡二人家路かな

☆昨日の句会提出句(○は選んでもらった句)

  早春の親子自転車風切りて
 ○春の海トランペットの音高く
 ○桜餅こねる手先に湯気立ちて
  藍染めのトートバッグも春の柄
  着物屋の道行きコオト春重ね
 ○肉饅頭むふふの春や中華街
  占い師春歴前に目をつぶり

昨日の元町句会の時は、気温はやや低かったが、春の風情もそこはかと感じられたのが、全く季節は逆戻り。

まぁ、これが自然の面白さなんだろう。

言語体験の共有化によってコミュケーション成立した安らぎが得られる2011/02/13 23:19

今日は、俳句童子の元町句会が開催された。
合計で17名位だったかな。盛況であった。
句会には、以前、下津井で参加したが、この時は、100名を超える人数で通常の句会とは言い難いものであった。
今回は、人数を含めて一般的な句会であったと思う。
左右両眼合計30個を越える目玉が元町近辺の様々な事物を観察し、俳句に詠んだ。
1名当たり7句の出句であったから、合計100句を超える俳句が作られたことになる。
大変な数である。


俳句の場合は、季語とか表現上の決まりごとがあるが、参加者それぞれ、独自の視点から俳句を詠んでいる。
当然であると思う。

「唯識」の立場からみれば、それぞれの網膜に焼き付いて、神経を通って脳が認識し、言語中枢を指摘し、学習の記憶を探り、それに適合した詞句を当てはめ、文字として書き留めているのである。

同じ物体・マテリアルをみても、実は、それぞれが別々の刺激が網膜によって生まれている筈だが、実は、それは、その段階で、「見えた」とは言えないのである。

ところが、生まれて初めて両親や身近な人から「言葉」を教わったその日から刺激がイメージを獲得して、認識が規範化される過程を経て、他の人間との共有が可能になり、「普通の人が見えている様にみえて」、同じ刺激体験の共有によって、コミュニケーションの成立に至るのだと思う。
つまり、観察の対象となるマテリアルが存在していなくても規範化とその学習を通して体験の共有化が可能になる訳である。

☆☆☆
今日僕は、

○春の海トランペットの音高く

とあんまり感心できないけれども、なんとか作った句を提出したが、それでも、こんな拙い句をとってくれる人がいて、感謝・感激である。

でも、「春の海」も「トランペット」も、その音も、それぞれ違う認識がされていた。
春の海とか、トランペットの音のイメージに対して、私とはかなり異なった認識がされているので、それなりに面白かった。
言語認識の規範性というのは、一定の恣意性を伴うものであるから当然である。

でも、この人は、他の人の様に、「何故、春の海なのか。」「トランペットでなくたってクラリネットでも良いではないか。」という否定期的な見方ではなくて、「春の海にはトランペットが似つかわしい」という認識で僕と一致したのである。

非常に嬉しかった。句が評価されることで、「唯識」の垣根を越えて、それぞれの認識の共有が実現したのである。

そうなると、誰かに抱き留められた様な不思議な安心感と安らぎを覚えるのである。

実際、句会では、厳しい批評が行われ、論評されている本人は、針の筵の上に座っている様なものであるが、それでも、句会に出席し続けるというのは、句の評価者・理解者によって、言語体験の共有化によってコミュケーション成立した安らぎと快感が得られるからである。