『3万年の死の教え チベット「死者の書」の世界』2007/12/07 00:02

『3万年の死の教え チベット「死者の書」の世界』(角川ソフィア文庫)

 この世に「死者の書」と呼ばれる書物はいくつかあるが、エジプトのオシリス神にちなむもの、折口信夫の「死者の書」の様に古代の貴人の御霊を象徴的に蘇らせて過去の世界に読者を誘おうとするもの等様々である。
 この「3万年の死の教え」は、チベットの死者の書を扱ったもので、日常的にチベットの仏教で信仰されている如来蔵思想に基づく「バルド・トドゥル」と言う経典に書かれている内容を最初は、1.老僧と弟子の小僧、死者、家族の関係を通して、体験的に描き、2.ユングの心理世界に通じる人類共通の深い心理と瞑想の経験、そして、3.カルマ・リンバの発見の記述で構成されている。
 最初の体験記では、ある家の長男が臨終を迎え、老僧のチベット経典に基づく臨終儀式・作法の解説が中心となっている。
 チベットでは、「死」は、終局を意味せず、1.生命存在のバルド、2.死のバルド、3.心の本性のバルド、4.再生のバルドで構成された世界を移動する事に過ぎない。解脱出来ない魂は、1→4の過程を繰り返し続ける。
1.死の第一段階は、呼吸の停止だが、身体の内部では気脈は保たれている。
2.やがて気脈は、頭頂部と臍部からの2つの気脈がぶつかり、バースト状態となる。ここで、生前、ヨーガの訓練をしておれば、パニックに陥いる事なしに、次の段階に進む事が出来る。死後も常に心を冷静に保っておかなければならない。「バルド・トドゥル」はこの為に教えなのだ。
3.透明な光に導かれる様に意識は、死者の身体から分離していく。
4.この段階に至っても、死者は聴覚だけは生きており、老僧の言葉を聞くことが出来る。
5.1~2の過程を経ていよいよ3の心のバルドへと移っていく。
6.あらゆる意思の根源の光が現れる。同時に様々な邪念も生まれる。大日如来や阿弥陀如来等の光と一体化出来れば、解脱への道をたどれるが、それが出来なければ、4.の再生バルトへと移行する。ところが、これらの正しい光、死者にとっては、グリーンや白色の極めて強烈な光なので、恐怖感に先に捕らわれる。だから、正しい光を見極める為にも生前から修行が必要なのだ。
5.再生バルドでは、再び生命バルドに転生する為に幾つかの試練がある。そこで死者は、六道の内、何に生まれ変わるのかが決定される。日本の閻魔の様なヤーマ神が支配する世界だ。
 こうして見ると、日本人の場合は、臨終後、三途の川を渡り、いきなり、2~4を飛ばして、5の再生バルドに入ってしまうが、チベットの場合は、それまでの過程の方が重要なのだ。
 死者の多くが、心の本性のバルドであらゆる生命の根源である「原光」と融和・合体出来ないで終わってしまう。この融和を行う為には、人は、生前から瞑想を行い清らかな光を見分ける力が必要である。
 その根底には、先ほど述べた如来蔵の考え方がある。大乗仏教の中心思想である中観や唯識思想が統合された考え方である。
 人の意識の最も深いところにあるアーラヤ識は、バルドの境界を越えても存在し続ける。また、それは、心のバルドの「原光」に導かれようとする方向に仕向ける働きを持つ。それがあらゆる生命体が持っている仏性であり、菩提心に結びつく。
 この本の「3万年の死の教え」という副題は、こうした、「心のバルド」が死を越えた人間の存在の深い根底にあり、それを瞑想を続ける事で「光」として会得出来ると言う考え方が、チベット以外のオーストラリアの現住民族等にも見られ、それを象徴する絵画も描かれている事を指摘する。
 人間の思考は、「言葉」によって行われる。人類が言葉を会得してからおよそ3万年以上が経過していると考えられる。言葉が生まれてから人類の最も深い思考は、死と再生と自らの意思との関わりへの探求であったと考えられる。それが、この本の著者が訴えたい事なのだと私は考える。
 実は、この「死者の書」は、NHKの特集番組として映像化されている。しかし、映像化されたTVを見るよりも、この本の方が雑念なく、老僧と少年の静かな対話を通じて、チベット仏教の深い世界に入っていける。
 ところで、如来蔵の思想に一番近いと考えられるのが、手塚治虫の『ブッダ』の最初の覚りの場面であり、この場面では、ブッダは、あらゆるこの世の生命が一つの大きな光から生まれて来ている事を知る事になっている。手塚のブッダの覚りは、チベット仏教に近いのだろうか。
 この本は値段は安いが、チベットの仏教絵画の基礎的なものは、如来、菩薩、曼荼羅と殆どが収められており、その精神的背景を知る事が出来る点でお勧めだと思う。特に佛教大学の仏教芸術コースでは、仏教絵画の実習の授業を選択でとる事が出来る。私は、選択しなかったが、チベット仏教の観音菩薩の仏画を描く事が出来る。観音菩薩は、再生バルドに入って既に絶望的な状態となっている死者を、慈悲の心でポア(救済)して下さる有り難い存在である事もこの書物には描かれている。

コメント

トラックバック