ゴルゴタの丘への道の風景2009/02/28 15:49

 昔、大阪にも音楽切手愛好会があったというかこちらの方がJPSの音楽部会よりも歴史は古い。

 金井さんという方が世話役をされていた切手収集家の根城であった郵趣文化センターでメンデルスゾーン没後150記念切手展が開催されたのも、もう12年も前になる。
 今年は、生誕200年ということで東京の方ではきっと記念切手展等を開催すると思うが、こちらには、無縁である。

 メンデルスゾーンが始めてバッハのマタイ受難曲を蘇演した時の貴重なスコア(メンデルスゾーン版マタイ受難曲)を入手した。

 実に美しくながれるようだ。これを見ながら、メンゲルベルクのマタイ受難曲の演奏を聴く(浪漫派らしい改変や、省略等、メンデルゾーンの編曲と共通点が多い。むしろ、浪漫派の演奏スタイルが、100年近く1939年まで生きた形で伝わっていたというべきで、まさに本物の演奏だ。

 1970年代の終わり頃から、ピリオド楽器の毒虫の様な演奏が登場し始めて、1980年台には、ピリオド楽器以外の演奏は、バッハではない。(グールド等の一部の例外を除いて)というおかしな風潮がはびこり始めた。日本でもインテリエリートの東大なんかの音楽美学や音楽史理論を標榜する評論家達(彼らは、別にピリオド楽器を発明したり、新たな価値を自分で発見した訳ではなくて、外国の音楽学者やアーティストの無批判な受け売りに過ぎない)がもてはやし、モーツアルトやハイドン、はては、当のメンデルスゾーンやシューマンまでピリオド楽器でやるといった馬鹿げた状況になってしまった。

 こうしてみると、メンデルスゾーンの時代の本当の浪漫派のスタイルでマタイ受難曲が「再・蘇演」されたら、誠に意義深いことだと思うが、そういった愚かな考えを持つのは、私の様な「下流」の人間だけなのだろうか。少なくとも音楽に関しては、「原典主義」よりも、「生きた演奏」を目指した方が宜しいと思う。

内容についての私論

 1939年4月棕櫚の日曜日に行われたメンゲルベルクのマタイの演奏は、ナチスのオランダ侵攻の直前に行われた演奏で実に感動的だ。聴衆の絶望的なすすり泣きの声等も貴重な記録である。「キャシャーン」というアニメ(最初に放映された「原典版」)で、この音楽会をモチーフにしたクラシック演奏会のシーンがあった。ナチスはアンドロ軍団というロボット兵団に置き換わっている。

 第50曲のレスタティーボでピラト総督は、「この人の血には私は責任はない。お前達の問題だ。」と群衆に裁きを委ねる。

 こうして愚衆によるイエスの処刑が始まる。愚かな民達は、引きずられる様にイエスをゴルゴタに追い立てる。「無知」、「衆愚」を利用した為政者、インテリの自分の手を血で汚さない「責任回避」等々、どこかの国で今春から開始される裁判員制度が想起させられる。

 この部分でもすすり泣きが漏れるが、これは、もはやどうしようも無くなった時代への絶望感がこもっている。「人が人を裁く愚かさと究極の罪。」がこの受難曲のテーマである。

 人類は、「衆愚」という形で、「原罪」を背負っている。この「原罪」が世界をどうしようもない破滅への道に駆り立てる。今の世の中もそういった悲劇的な状況である。状況を変えるのは、徹底的な破壊と破滅しかない。

 あるいは、もはや人智を越えた存在にすがるしかないのである。

 民が重税と水責め・鋸引きに喘いだ島原の乱の前夜の領国を思わせる様なこの国は、無論のこと、人類史の中で、人民が自らの力で、原罪によって引き起こされた破滅へから自助努力で逃れた例は皆無である。

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