ハイエンド機種では、P90が注目かな2009/02/05 00:04

 NIKONからクールピクスの春の新製品が登場。今回は、ハイエンドコンパクトデジカメに力を入れる一方で、コンパクトタイプは、一層薄型、操作感向上、高画素化(1400万画素)が売り物となっているようだ。まぁ、頑張っている様子は良く判るが、何がどれだけ良くなったのかという点は、実際にこのカメラで撮影して、画像を確認しない限りは判らない。

 一番、面白いと思ったのは、ズームボタンが今までのクールピクスの使いにくい(ソニーもそうだが)背面2ボタン方式から、CANONのIXY同様に全面レバー方式に変更になったことである。私もこれがNIKONのコンパクトデジカメの操作性の面で最大の弱点であったと思っていたのが、ようやく克服されていた。また、同社性のカメラの欠点であるズームのレスポンスの遅さであるが、これも克服されているのだろうか。

 せっかく、キムタクの蝶々を撮影するCMで高速起動を印象づけていても、その後、操作がトロイのでは、なんの役にも立たない。また、片手で構図を決める場合、ズーム倍率もポイントになるので、片手でズームボタンが操作出来る様になっただけでも大きな進歩だと思う。後は、パナソニックと同様の追っかけAFも搭載。

ハイエンド機種では、P90が注目かな。24倍ズームという、高倍率ズームでは、もっとも倍率が大きい。また、液晶も私が一番欲しいと思っているチルト式の可動液晶モニターである。また、車撮り等で効果を発揮すると思うのは、「ベストショットセレクター」(BSS)でこれは、従来機種からついているが、非常に信頼性の高い機能だ。

高倍率ズームの場合は、ぶれやすいので最大十コマの連写でベストのものが選べるというのは、凄い機能だと思う。デザインもNIKONらしく優れている。画質等は撮影してみないと判らないが、これで、AFが速ければ買いかな。3型チルト式(左右には動かせない)液晶モニター等を含めて、同社の一眼レフよりも欲しいと思う。

 それにしても、どんどんパナソニックFZ28が競合他社に追い抜かれていくなぁ~。発売されてから半年も経過していないのに酷な話だと思う。

 パナソニックがヒット商品を作れば、次々に物真似が登場する。特許を含めた意匠登録等を強化しないと、一体誰の為に、調査費用をかけて、開発しているのか判らなくなるだろう。

小桜姫の物語について2009/02/05 23:34

 日本の近代文学史の忘れ去られた一面、それは、スピリチュアリティーである。

 美しい古典の魂を捨て去って、西欧風の近代文学を志向した明治近代以降の文学。それは実は不合理の塊であった。
 既に西欧社会は、少なくとも精神面では、行き詰まっていた19世紀、それを救う唯一の手だては、スピリチュリティーへの回帰であった。
 漱石が目にしたイギリス世紀末文学の方向性は、まさにスピリチュアリティーであり、これを受け入れることは、近代への絶望と美しい魂・精神への世界への退行であった。
 コナンドイルの「失われた世界」を読んでいると実は、これは、近代文明批判であることが判る。
「コナンドイルの心霊学」
http://fry.asablo.jp/blog/2008/09/11/3756187
 ようやく西欧の知識人は、ある側面に気づき始めたのである。
 「近代の合理主義は、単なる現象の説明・解釈に過ぎなかったんだと。」
 素直に原始仏教の精神をヨーガの体験を通じて受け入れる宗教は、そうした側面を知らない人にとっては、まさに迷信・異端の世界であるが、こうした宗教に東大とか一流大学、医学部等の優秀な研究者や学生が入り込んでいったのは、彼らは、こうした点に気づいていた為である。
 現象の根源には真理があり、その真理を支えているのは、魂(スピリチュアリティの純粋な世界)なんだということ。

 残念ながらスピリチュアリティの考え方は、鏡花や漱石の一部の作品にも現れているが、表面に出ることはなかった。
 関西大学に居る時に谷澤先生から、土井晩翠についての講義を聞いた。この授業は、彼の一生を1日単位で作品史を共に読み進んでいくもので、凄く情報量が多いので感銘を受けた。
 その中で、やはり、土井は、世紀末のスピリチュアリティの文化に強い関心を持っていった。スピリチュアリティへの傾斜は、浪漫派から20世紀の文化・文学への架け橋であったからだ。
『小桜姫物語』(浅野和三郎著,2008,潮文社)

 この作品も土井は序文を大きな讃辞を寄せている。この作品が、昭和11年にある(鎌倉時代の女性*)との霊的交流によって物語として出現した奇跡は、あの未曾有の国難・世界大戦に突き進んでいく暗い世相の中で、唯一咲き得た純粋な白百合を思わせる様な美しさだから。(漱石の夢十夜のあの作品を思い起こして欲しい。)

 心霊交流という興味本位な事実はあるが、実際にいにしえびとが、物語を創作するというのは、語り手の視点に立つと同時に霊的交流と憑依によるものなので、これが、本来の純粋な日本の文学・物語の姿なのだと思う。

 落城の悲惨に逢った姫君の哀しい話がモチーフだが、龍神信仰と結びついているのは、実に源氏物語等の古物語りの古層に現れる海神信仰と黄泉の国との関わり、未来・運命を左右する天狗界、そうして梅の精との対話、実に、殺伐としたこの時代の文学作品の中で典雅な内容となっており、かの定家卿の松浦宮物語を彷彿とさせる。

 世紀末のイギリスでも幾つかのスピリチュアリティな文学作品が描かれたが、この作品は、それらを遙かに凌駕する日本独自のスピリチュアリティ文学の一つの到達点である。

 戦争に突き進む中で、これらの要素は、全て否定され、戦後は、アメリカ的合理主義の台頭で、この様な作品が生まれる余地は永遠に失われてしまった。

 日本人は、自らの魂のふるさとに遊ぶ愉悦を自らの手で葬りさったのである。 

*土井晩翠は、序文で「小桜姫物語は、解説によれば、鎌倉時代の1女性がT夫人の口を借り、数年に亘って話したものを浅野和三郎先生が筆記したのである。」とあるが、実際には、戦国時代の女性との霊的交流の結果、生まれた作品であることは、良く読めば判る。この様な霊的交流の体験談は、江戸時代の代表的な国学者平田篤胤も幾つか記録に残している。