悲しい別れではなくて、極楽往生の本懐を遂げたお祝いの「場」なのである2010/03/07 18:29

 今朝10時から叔母の告別式。

 導師様は、浄土宗天乳寺のご住職。この天乳寺は、能勢町の山奥にあり、屏風岩の近く。木喰上人作の仏像で有名。

 式典が始まった。

 浄土宗の式典に慣れている私は、今、唱えられているのが香偈であることは、当然、理解出来たが、実に美しい声調である。

 香偈の最初の声を聴いただけで、もうその式典の良否が判ってしまう。実に美しく、厳かな響きであったので感動してしまった。

 その後、浄土三部教も実に美しい響きで、綴られていく。目を綴じて聴くと、極楽浄土に向かう叔母の姿が目に浮かぶようだった。

 毎日、就寝前に浄土三部教を暗誦しているので、その様なイメージが湧いたのかもしれない。

 浄土教の経典は、極楽往生の言わば、イメージトレーニングの様な面があり、いくら正確の経典が読まれても、極楽往生のイメージが湧かなければ値打ちがない。

 この天乳寺のご住職様は、その点素晴らしく、この様な方にお経を読んでもらって叔母も満足しているだろう。

 叔母は、祖父や祖母の法事の時に、お坊様がいい加減なお経を上げると、真顔で怒る様な人であったから、いい加減なお経であれば、気の毒だ。

 しかし、今日の朗唱や読経は素晴らしかった。また、聴いておって意味が良く変わった。法蔵菩薩の修行から本願、阿弥陀如来になられて一切の衆生を救済される本願を立てられて、その本願の力で今、叔母が、一切のカルマから解脱して往生の本懐を遂げている素晴らしい瞬間なのだ。

 そう、悲しい別れではなくて、極楽往生の本懐を遂げたお祝いの「場」なのである。

 天乳寺のご住職は祖母の時もお経を上げて頂き、その時は、叔母も感心して拝んでいたが、今回は、その叔母が極楽往生を遂げる順番となった。

 たしかに、極楽往生は、素晴らしいことであるが、愛別離苦の悲しさを禁じ得ないのがヒトとしての哀しさである。

 私もいよいよ極楽往生の時には、この天乳寺のご住職様にお経をあげてもらいたいが、それは、適わぬ夢だろう。

 天乳寺のご住職は佛大で学ばれており、だいぶ前にその時の想い出を話して下さった。

 今日のこの様な幸せを理解出来た人はどれだけいただろうか。

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