各各に隔てありと雖も相い由りて成立し、融通無礙にして、同じて1念と成す2008/12/24 09:28

 昨日の全日本大学女子選抜駅伝をTV観戦していて、佛大の西原選手が区間賞をとる様な速さで突進ながら、立命館大学のアンカーにどうしても追いつけず、3秒差を縮めることができない有様をみて、「ゼノンのパラドックス」(アキレスと亀の寓話)を思いだしてしまった。

 西原選手の方が明らかに走行速度が速いのに、2人の間は、縮まらない。つまり、西原選手が立命館1回生の沼田選手に、肉薄しても決して追いつくことはなかった。

 ゼノンのパラドックスは、「運動は存在しない。なぜなら始点から終点までの移動は、終点に達する前に両者の中間、すなわち中点に達しなければならない。この中点に達するためには、この中点と始点との中点に達しなければならない。以下同様である。ところが、あるものが有限の時間にひとつひとつ無限のものに触れることは不可能である。ゆえに運動は存在しない。」
http://www6.plala.or.jp/swansong/007400taikakusen.html

飛んでいる矢は止まっている(wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

 「これは物体の運動に関するものである。矢が飛んでいる様子を考えよう。ある瞬間には、矢はある場所に位置している。僅かな時間だけに区切って見れば、矢はやはり少ししか移動しない。この時間をどんどん短くすれば、矢は動くだけの時間がないから、その瞬間だけは同じ場所に留まっているであろう。次の瞬間にも、同じ理由でやはりまた同じ場所に留まっているはずである。こうして矢は、どの瞬間にも同じ場所から動くことはできず、ずっと同じ場所に留まらなくてはならない。従って、飛んでいる矢は止まっている 。」

 こうして、ゼノンは、運動など存在しないということを立証することで「不動こそが、万物の根源である」ことを示そうとした。そして、無限を克服しなくてはならないということを運動を不可能とする根拠とした。

 この考え方は、実は、説一切有部のアビダルマと同じ考え方。
 今、私たちが見ている「現象」は、実は目に見えない無限の停止性を持つ画面・場面の点滅であると考えようとした。
 つまり、連続して認識される運動を人は現象として捉えきれないのである。

 こうした考え方を龍樹は、「中論」で否定した。つまり、時間そのものが「空性」である為に、そもそも停止や運動の絶対的な「実性」は、存在しないというのである。

 つまり、西原選手が沼田選手をみたら、近づくどころか、こんなに走っても近づけないのだから、どんどん離れていく様にも錯覚出来るし、逆に沼田選手は、実際には距離は縮まっていないのにどんどん肉薄してきている様に感じただろう。(実際に沼田選手はその様にインタビューで話していた。)

 相対的現象は存在しても絶対的な現象は存在しない。

 僅か3秒の時間差、これも時間スケールの見方を変えれば、既に追いついているというか同地点にいるとも見ることができるし、2人の距離は、数千キロにも匹敵するとみることが出来る。これが仏教的な距離感であると思う。

 果たして、絶対的な時間というものが存在するのか、龍樹の理論を発展させて考えると、現象として認識される「絶対的な時間等は存在しない。」ということになる。
 だから、アビダルマの中の狭義の「縁起」は「空性」である。

 何故ならば、縁起は、時間的な前後関係によって「現象」が生起することを示そうとしたからである。
 
 大乗思想の時空論は、現象としての時空認識を越えている。しかし、その宇宙観を見ていると、理論・思想的に完全に克服出来ているとは言えない。

 それにしても西原選手と沼田選手にとっての「3秒」の時間は、これからの何十年という1生(世)、あるいは輪廻転生の数世の「時間展開」の中で、大きな意味を持ち続けるのである。

 まさに、中国華厳宗の賢首大師法蔵の著作、『華厳五教章』に、表題の通り、記載されているのである。

『マンダラの仏たち』(頼富本宏著,1996,東京美術)2008/12/24 22:32


 この本は、マンダラ関係としては、割と、有名な本であり、価格も1,200円で、大学のテキスト等で使われているところもありそうだ。

 内容的には、カラー図版が少ない等、見にくい面もあるけれども、頼富先生の解説は、素晴らしい。

 大抵のマンダラ、あるいは、密教美術関係の解説書は、美術史的観点、あるいは、尊格については、絵画的な特徴を中心に解説したものが多いが、この本、如来、菩薩、明王について、その形態的な特徴よりも、その形態が描かれる密教的な思想の背景から考察している。

 従って、如来、菩薩、明王について、その尊格が産み出されるまでの経典や既存仏教から密教への変化がどの様に影響しているかについて詳細に解説している。

 特に、出色なのは、明王部である、頼富先生は、明王こそが、密教の思想が先行する仏教宗派の影響を受けずに直接的に尊格、形態に反映されている貴重な例としており、大日如来やあるいは、様々な仏達の密教に於ける神通力の様なパワーが明王の形として描かれているので、明王達を詳しく観察することで、金剛界や胎蔵界の密教宇宙に本質を理解する入り口にもなり得ると説明されている。

 特に不動明王の初期の少年の様な姿から、憤怒の表情への移行の過程で、どの様な密教思想の変化があったのかについての考察が興味深い。

 私の国文学科の師匠である黒田彰先生は、密教図像学会に入られているが、真っ先にこの本を推薦して下さったことを記憶している。