中尊寺経の書写・成立過程等貴重な考察2009/02/14 22:36

IXYDIGITAL70で撮影。
 講談社の「日本の仏像シリーズ」で中尊寺が抜けたが、なんらかの事情があったのだろう。
 中尊寺は、藤原3代の御遺骸を収めた棺の調査が戦後まもなくして行われたが、その際にあくまでも御遺骸の尊厳を守ろうとする調査研究者及び寺側と取材、マスコミとの軋轢が生じた。それは、現代でも希な程の酷いものであったという。
 この様なシガラミが『中尊寺千二百年の真実』(佐々木邦世,2005,祥伝社)の文庫本に記述されている。(120-126頁)
 当然、週刊誌写真誌で世の中を何度も騒然とさせた講談社への警戒心は他社に比べて強いものと考えられる。
 私が、藤原三代の御遺骸の発掘調査のことを初めて知ったのは、それから数年のちの小学生の頃で、少年向けの雑誌、汚い藁半紙の様な紙に見えにくい写真と共に掲載されており、非常に興味を覚え、本がボロボロになるまで読んだことを記憶している。
 それにしても、この佐々木氏の本のユニークなのは、寺側の目線で、中尊寺の歴史と現代の風土・文化の事を述べている点である。
 藤原三代の遺骸調査の一部については、『日本人の骨とルーツ』*(埴原和郎,2002,角川書店)に比較的詳細に記録されており、この記録と照合して読み進めると色々なことが判る。
 結論から言えば、藤原三代の御遺骸は、ミイラとして保存されたものではなくて、奥州人の知恵と信仰の集積である金色堂と、その優れた自然環境によって自然保存されて、現代まで伝えられてきたことである。
 この本には、秀衡公の復元肖像図(御遺骸調査によって複顔された)が掲載されている。埴原氏の著作では、人類学的考察、清衡、基衡、秀衡、泰衡の4代の頭骨測定値と遺伝学的な分析、遺骸及び残留物からのミイラ状遺体への変化した要因についての考察が行われている。

 金色堂の須弥壇は、明治時代に中央政府が派遣した役人の手で改修されているが、それが、文化財の破壊ともいうべきものであった。
 というのは、棺桶には、「種袋」(蓮や極楽往生にちなんだ植物の種子等を入れた袋)や、あるいは、砂(土砂供養)がいれられていたが、明治期のこの「破壊」でこの砂が塵界として捨てられてしまったのである。
 これは、現代の高松塚やキトラ古墳における文化庁の破壊所業に通じるものであり、調査とは、やはり、保存よりも破壊の要素が、どんなに注意を払っても存在することを決して忘れてはならないのである。
 観無量寿経の世界を現世に具現した無量光院の狩猟図は、どの様な意味合いを持っているのか。
 丈六阿弥陀仏や千手観音像の調査結果、中尊寺経の成立・書写過程についても他の文献にはない貴重な考察が成されている。
 読んでいてなかなか面白い本であった。

*木村尚の『日本人の骨』(岩波新書、絶版)に次ぐ、優れた著書である。

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