ズレタ大学は学生数が減るばかり2009/02/25 09:05

 最近、書店で本を購入すると、書店の袋の中に、大学通信教育のリーフレット(パンフレットの小型のもの)が入っていることが多くなっている。

 大学通信教育に興味を持つ人間は、当然、書籍にも興味がある人が多いので、不特定多数の人が集合する駅のホーム等で広告を打つよりも有効な手段であると言えるだろう。
 こうした広告をみていると、「判っていないなー」と思うことが多い。それは、大学側の視点で通信制のキョウイクのPRを行っているので、ズレてしまっているのだ。

 特にカルチャー系の学部・学科の場合は、学位・資格よりも、そこで学修することによって、自分の生涯・生活にどの様なメリットがあるのかという点を具体的にPRする必要があると思う。

 例えば、写真系の学科であれば、具体的に学生さんが入学前に撮影した写真と卒業写真を比較するとか、コマーシャルアートの場合は、実際に商品の宣伝に採用された例を示すとか、あるいは、外国文化・芸術で学んだ卒業生が、その後、海外での活動のブログを引用するとか、いくらでも新しい宣伝が可能である。

 しかし、もっとも重要な盲点が、現在の佛教大学や他の大学を含めて、存在している。それは、研究と教育とを混同している点である。同じテーマをみる場合にも教育的視点と研究的視点とは異なる。研究的視点に立てば、新しい事実認識や発見・報告といったことが一番重要になるが、教育の場合は、既存の現象・事実についての認識・分析の方法を教え、新たな価値観の方向性を与えるという点である。

 カルチャー系の教育サービス業の顧客の盲点というか、弱点は、「選択の恐怖」という点にある。つまり、情報自体は、自らの努力でいくらでも収集出来るが、このテーマについて、学ぶ時に、どの情報をどの様な方向性で以て、分析・位置づけるかという場合の基準をつくりあげることが難しいのである。特に大学教育の場合は、新たな事実の発見とかそういったことよりも、学生にそういった「選択力」を修得させることの方が重要であると思う。

 このニーズも年層が若い通学制の場合と様々な年齢層が混在している通信制の場合とでは、異なるので、それぞれの世代・ニーズにあったキョウイクを実現する必要がある。こうした観点でみれば、教員は、必ずしも大学教授である必要はない。キョウイクの視点からそのテーマを学生のニーズに見合った方法で実現させる補助をするということに主眼がおかれるべきである。少なくとも通信教育が通学の大学の代替品であるという認識を改める必要があるだろう。

 優れた研究者が優れた教育者では必ずしもない。文学部の大学院でのキョウイクをみると、研究者を育成するという内容が大部分であり、教育者を育成するといったカリキュラムが殆どない。これは、何故かといえば、教える能力がないからである。

 日本の高等教育のレベル低下が著しくなっているが、こうした点の認識が欠如していることが大きいと思う。入学パンフレットに誤りがあるのは、最低であるとしても、例えば、カリキュラムに***学特講といったネーミングがあるが、これは、完全に大学側が自分の都合で名付けているので、学生の立場を考えれば、具体的に何が学べるのか、少なくともそれがある程度推察出来ることを考慮すれば良いと思う。

 学生数が減少している大学では、今すぐ、間違った認識を改めるべきだと思う。図は、書店の袋にパンフレットが入っていた大学のWEB。ここのWEBは結構、工夫されていて良いと思う。

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