人間そのものがメディアである虚しさ ― 2010/06/20 23:31
今までの人生が偽物というか無駄であったという様な虚無感。
常に透明な膜が顔に貼り付いて、それを通して呼吸をしている様な息苦しさ。
今、ここに生きているという実感というのを一度も私は、感じたことがない。
それは、佛教大学の応用社会学科に入るまで、ずっと感じていたことで、今の同様の虚しさを感じる。
そういった状況の中で、富田英典先生(当時は、佛大、今は関大の教授)がスクーリングでみせてくれたビデオ、「トゥルーマン・ショー」、これが、この大学で、今となっては、最も衝撃を受け、未だに、気になっている作品。
今日、実家の整理をしていると、このビデオが出てきたので、おうぶの家でずっとみていた。
このビデオ、スクーリングでは、途中までしかみせていただけなかったが、それを映していた時の富田先生の何やら悲しげなお顔が忘れられない。僕は、あの先生、人間そのものがメディアである虚しさ(演技としての人生)を感じていたのだと思う。
親子、夫婦、会社の上司と部下、医者と患者、あらゆるものが実は、メディアという虚構の共通認識によって規定された仮面・衣装を纏って演技をしているという考え方。
トゥルーマン・ショーは、胎児の時から虚構のドラマの中の世界で演技をさせられた男を描いている。
彼にとって、人間そのものが、演技だったという恐ろしさ。
視聴者は、「彼は可哀想だ」と思うが、やがて自分自身もそうであると気がつく訳だ。
このビデオ映画の虚構世界は、巨大な数十キロもある様なドームの中にあり、人工的に昼夜、天体の運行、雨風、天候、全てがコントルールされる。彼が生活する市街地の数千人か数万人かしらないが、そこで生活しているのもみんな役者。
それどころか、彼と結婚する女性も演技(つまり、セックスも子供を作るのも全て演技)。
ウソがばれたのは、結婚式の時の写真で彼女の指が密かに懺悔の形をしていたことを彼が発見した為。
恐ろしい虚構で、監督の目論みでは、そこで産まれる子供さえ、第2のトゥルーマン・ショーになる筈だった。何故ならば、ベビー用品のCMスポンサーを獲得したかったから。
様々な試みを行うが挫折する。
しかし、「アルカトラス島からの脱出」の映画と同じ手口を使って、脱出に成功して、「世界の果て」に辿り着いて、このドラマも終わるのだが、神であるプロデューサーが最後に語りかけるところで、「君は、私が作った世界の外では、生きていけないんだよ。君が棲んでいる世界の方が、外の世界に比べて、ずっといいんだ。僕は君の全てを知り尽くしているのだから、それが判る。」という台詞が面白い。
僕らの人生というか生活とかそういったものは、全てメディア化されている。
メディアは共通のイメージをあらゆる人と共有するので、ある意味凄く、安心というか一体感がある。
トゥルーマンじしんもそうだし、彼のドラマをみている観客もそうだ。
しかし、その安心感とか一体感を生んでいる世界そのものが、全て虚構のスクリーンなんだと思う。
仏教の世界でも、そうで、まさしく「空」であり、そのスクリーン、それぞれが映し出したものを実体として認識しているのに過ぎない。
「空」では、仏の教えさえも「空」である。
人間の存在、個々の人間の人生など、実体などある筈はない。
人生の勝者、敗者、或いは、住宅ローンの完済、それぞれの社会階層の中でのライフステージをクリアした達成感、それらは、全て、虚構のスクリーンに過ぎない。
しかし、このビデオ作品では、1つだけ真実があることになっている。
ドラマのプロデューザーに配偶された女性ではなくて、本当に愛した女性が登場する。これもプロデューサーに引き裂かれるので、一種の悲恋ドラマになっているが、ここの部分がこの作品では、一番甘いところ。
また、本当に愛される女よりも、虚構の女の方が、表面的には、善良・清楚で、看護婦という聖職につき、家庭的にも魅力がある女性になっているのも、この映画の面白いところ。
しかし、僕は、「愛」ほど虚しいものはないと思う。
実際、仏教では、もっとも、否定的にみなされる考え方である。
徹底的なニヒリズムだと思う。
人生は、それぞれがその実体は「空」である「意識」の巨大な膜で、仏のみが知る縁起・因果に基づいて、ドラマの登場人物の様に演技をしているだけ。
ドラマの監督は、トゥルーマンが、ヨットによって、脱出しようとした時、人工の大海に嵐を発生させて、主人公を殺そうとする。
そう、人間は、来世の極楽往生による解脱は、この虚しさを逃れる道はないのだと思う。自らの力では、どうすることも出来ないのが、他力思想である。
常に透明な膜が顔に貼り付いて、それを通して呼吸をしている様な息苦しさ。
今、ここに生きているという実感というのを一度も私は、感じたことがない。
それは、佛教大学の応用社会学科に入るまで、ずっと感じていたことで、今の同様の虚しさを感じる。
そういった状況の中で、富田英典先生(当時は、佛大、今は関大の教授)がスクーリングでみせてくれたビデオ、「トゥルーマン・ショー」、これが、この大学で、今となっては、最も衝撃を受け、未だに、気になっている作品。
今日、実家の整理をしていると、このビデオが出てきたので、おうぶの家でずっとみていた。
このビデオ、スクーリングでは、途中までしかみせていただけなかったが、それを映していた時の富田先生の何やら悲しげなお顔が忘れられない。僕は、あの先生、人間そのものがメディアである虚しさ(演技としての人生)を感じていたのだと思う。
親子、夫婦、会社の上司と部下、医者と患者、あらゆるものが実は、メディアという虚構の共通認識によって規定された仮面・衣装を纏って演技をしているという考え方。
トゥルーマン・ショーは、胎児の時から虚構のドラマの中の世界で演技をさせられた男を描いている。
彼にとって、人間そのものが、演技だったという恐ろしさ。
視聴者は、「彼は可哀想だ」と思うが、やがて自分自身もそうであると気がつく訳だ。
このビデオ映画の虚構世界は、巨大な数十キロもある様なドームの中にあり、人工的に昼夜、天体の運行、雨風、天候、全てがコントルールされる。彼が生活する市街地の数千人か数万人かしらないが、そこで生活しているのもみんな役者。
それどころか、彼と結婚する女性も演技(つまり、セックスも子供を作るのも全て演技)。
ウソがばれたのは、結婚式の時の写真で彼女の指が密かに懺悔の形をしていたことを彼が発見した為。
恐ろしい虚構で、監督の目論みでは、そこで産まれる子供さえ、第2のトゥルーマン・ショーになる筈だった。何故ならば、ベビー用品のCMスポンサーを獲得したかったから。
様々な試みを行うが挫折する。
しかし、「アルカトラス島からの脱出」の映画と同じ手口を使って、脱出に成功して、「世界の果て」に辿り着いて、このドラマも終わるのだが、神であるプロデューサーが最後に語りかけるところで、「君は、私が作った世界の外では、生きていけないんだよ。君が棲んでいる世界の方が、外の世界に比べて、ずっといいんだ。僕は君の全てを知り尽くしているのだから、それが判る。」という台詞が面白い。
僕らの人生というか生活とかそういったものは、全てメディア化されている。
メディアは共通のイメージをあらゆる人と共有するので、ある意味凄く、安心というか一体感がある。
トゥルーマンじしんもそうだし、彼のドラマをみている観客もそうだ。
しかし、その安心感とか一体感を生んでいる世界そのものが、全て虚構のスクリーンなんだと思う。
仏教の世界でも、そうで、まさしく「空」であり、そのスクリーン、それぞれが映し出したものを実体として認識しているのに過ぎない。
「空」では、仏の教えさえも「空」である。
人間の存在、個々の人間の人生など、実体などある筈はない。
人生の勝者、敗者、或いは、住宅ローンの完済、それぞれの社会階層の中でのライフステージをクリアした達成感、それらは、全て、虚構のスクリーンに過ぎない。
しかし、このビデオ作品では、1つだけ真実があることになっている。
ドラマのプロデューザーに配偶された女性ではなくて、本当に愛した女性が登場する。これもプロデューサーに引き裂かれるので、一種の悲恋ドラマになっているが、ここの部分がこの作品では、一番甘いところ。
また、本当に愛される女よりも、虚構の女の方が、表面的には、善良・清楚で、看護婦という聖職につき、家庭的にも魅力がある女性になっているのも、この映画の面白いところ。
しかし、僕は、「愛」ほど虚しいものはないと思う。
実際、仏教では、もっとも、否定的にみなされる考え方である。
徹底的なニヒリズムだと思う。
人生は、それぞれがその実体は「空」である「意識」の巨大な膜で、仏のみが知る縁起・因果に基づいて、ドラマの登場人物の様に演技をしているだけ。
ドラマの監督は、トゥルーマンが、ヨットによって、脱出しようとした時、人工の大海に嵐を発生させて、主人公を殺そうとする。
そう、人間は、来世の極楽往生による解脱は、この虚しさを逃れる道はないのだと思う。自らの力では、どうすることも出来ないのが、他力思想である。

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