餓鬼草紙攷2007/09/30 11:48

原図から描線のみを抽出してある
 仏教芸術コースでは、餓鬼草紙も仏教絵画史の中で、重要な位置づけとして学習する。
 平安末期から鎌倉初期の絵画でこれ程、技法的にも優れている作品はない。佛教大学の中島純司教授によれば、両者ともに宮廷付きの絵描きもしくは、これに近い地位にあった人の手になるものと言う。
 現存する作品で代表的なものは、東京と京都の国立博物館が所蔵しているものである。
 東京国立博物館所蔵(河本家本)には、詞書が見当たらず、絵画のみであるが、女房の描かれ方等を見れば、王朝絵画の影響が見られ、しかも、鎌倉時代以降の後世の画家の筆致に比べてはるかに芸術性が高く、典雅な趣さえ感じられる。両者を比較してみれば、東京国立博物館のものが、京都博物館のものよりも技巧的に優れている事は明らかである。
 東京国立博物館本の餓鬼草紙のテーマは、当時の生活風俗の中で、餓鬼は、どの様な姿で当時の人達と関わりを持っていたかと言う事になる。
 佛教文化史的に見れば、墓地で死体を漁る餓鬼達を書いた2枚の絵画が重要である。
 平安朝中期までの一般庶民の葬送・埋葬の方法は、野ざらしか、野焼きといったものであり、洛北の紫野や化野、鳥部山等がそういった古代からの葬送地域である。相当、高位の貴族の遺体でもこういった方法で埋葬された。
 ところが、平安朝中期から末期にかけて、都の人口が急増し、疫病が流行した事、仏教信仰の民間への浸透が進み、墓地に埋葬するというスタイルが徐々に定着して来たのがこの時期だ。
 この餓鬼草紙には、野ざらし放置、簡単な卒塔婆塔、立派な五輪塔と段階的に埋葬スタイルが描かれている。
 餓鬼草紙をよく見れば、野ざらしや簡単な卒塔婆と土饅頭の埋葬では、餓鬼達に遺体は喰われて見るも無惨な有様となっている。一方、五輪塔等、立派な墓標の遺体は、餓鬼達には手が出せない。
 つまり、当時、ようやく、広まりつつあった墓制・埋葬・供養法のあるべき姿を教訓的に伝えている面があるのではと考えられる。
 一方、京都国立博物館(曹源寺本)は、詞書を持ち、一つのストーリーを持っている。それは、教典・説話の記述に基づいて、絵画が作成されており、絵巻風である。
 先日の佛教大学の東海ブロック学習会にて黒田彰教授から頂いた論文「餓鬼草紙攷- 曹源寺本第三、第四段について-」(黒田彰著 関西大学『国文学』第91号)には、非常に興味深い事実が示されている。
 その中には、目連が餓鬼道に落ちてしまったのを救済の為に施餓鬼供養を行う有様が記述されている部分があり、盂蘭盆経に基づいている。
 図に上げた目連の供養によって、ようやく飯を食べられる様になった母親が他の餓鬼達にこれを与えまいと鉢の上に座り込んでいる部分は、どうゆう訳か詞書には、「(飯を)母にすすむるに心のままに食する事を得たり」とあり、救済を思わせる文章が書かれているが、飯鉢の上に座り込んでいることは描かれていない。
 日本に流布している盂蘭盆経にもこの様な記述は見えないが、敦煌文書に見いだせる「浄土盂蘭盆経」には、正に絵画通りの一節が書かれている。
 「母鉢飯を得て、即ち身を挙げ、鉢飯上に座す。なお、慳惜(けんせき・頑なにこれを惜しむ)の故なり。」
 人は何故、餓鬼道に落ちるのか、人間の物への執着心の浅ましさを示している。
 今は、失われてしまっている浄土盂蘭盆経は、8世紀以降の日本に伝来していた形跡を認める事が出来る。
 京都博物館本の餓鬼草紙は、まず、浄土盂蘭盆経の伝統に基づいた「餓鬼絵巻」が宮廷絵師等により受け継がれて来て、伝統的に描かれて来たものに、既に浄土盂蘭盆経が失われた後世の作者が詞書を書いた為に、絵画と詞書の記述内容に異なる部分が生じたのだと考える。
 私は、絵巻物を研究しているが、絵画の方は、伝統的に「カタ」として受け継がれているので、図案の変化は、長い年月をかけて変化していくが、文章は、直ぐに時代性が反映され変化してしまうものだと考えている。
 また、東京国立博物館蔵のものと京都国立博物館蔵のものは、内容も書かれた目的大きく異なっている。それは、代々書き継がれて来た餓鬼草紙が盂蘭盆経の享受と言う仏教思想的な側面を持ちながらもその享受環境をめぐる社会や時代的な背景に大きく影響されているのだと考える。