佛大通信教育部の学部の入学申込み期間は、第Ⅱ期が4月1日から4月15日まで ― 2011/03/29 09:40
佛大通信教育部の学部の入学申込み期間は、第Ⅱ期が4月1日から4月15日まで。
前回、このブログで書いたが、全く改善されていない。この募集期間について等は、本来は、通信教育部のトップページに載せるべきなのに、新着インフォメーションをみてもどこにも書いていない。
「新着」といっても宣伝したいことなら何度でも載せても構わない筈なのに、学生募集の記事を載せていないのには、唖然。
学生数が多すぎるので、募集人員を減少させようとしているのだろうか。
また、申込み手続きも煩雑。ネットで出来る様にすれば良い。健康診断書類等は、締め切りに余裕を設定しても良いと思う。つまり、必要事項をネットで入力して、銀行振り込みが確認されれば、それでOKにすれば良い。学費の支払いについても、口座振替の申込みが必要だが、初年度の学費はたしか振り込み制なので、申込書をネットで提出して、振り込み用紙が送られてくる仕組みにすれば良いだけ。
僕はまた、入学したいけれど、お金に余裕がないし、手続きとかややこしいので、敬遠になりそう。
前回、このブログで書いたが、全く改善されていない。この募集期間について等は、本来は、通信教育部のトップページに載せるべきなのに、新着インフォメーションをみてもどこにも書いていない。
「新着」といっても宣伝したいことなら何度でも載せても構わない筈なのに、学生募集の記事を載せていないのには、唖然。
学生数が多すぎるので、募集人員を減少させようとしているのだろうか。
また、申込み手続きも煩雑。ネットで出来る様にすれば良い。健康診断書類等は、締め切りに余裕を設定しても良いと思う。つまり、必要事項をネットで入力して、銀行振り込みが確認されれば、それでOKにすれば良い。学費の支払いについても、口座振替の申込みが必要だが、初年度の学費はたしか振り込み制なので、申込書をネットで提出して、振り込み用紙が送られてくる仕組みにすれば良いだけ。
僕はまた、入学したいけれど、お金に余裕がないし、手続きとかややこしいので、敬遠になりそう。
ネットビジネスが世の中不景気にした? ― 2011/03/10 12:05
ネットビジネスが世の中不景気にした?
空白の10年間に続く、衰退の10年間で、日本経済は、著しく後退したが、それは、特に中堅以下の企業の業績が落ち込んだ為。
マーケットで言えば、内需がクルマ等の一部を除いて、冷え込んでいることが大きい。クルマは売れてもガソリンスタンドの倒産が相次いでいるのもおかしな話。
IT社会の進展で、中堅以下の企業、教育産業を含むサービス業は、WEBによる宣伝広告を中心に行う様になった。
従来の印刷媒体や宅配DMでは、コストがかかりすぎるということで、WEB広告が中心となった。この為、多くのペーパーメディアが倒産している。
一方、WEB広告については、殆どの企業が外注に依存している。
実は、これが危ない。つまり、外注は、一応オーダーメイドなので、広告主の要望は適えられるが、メンテナンスがおかしくなっているところが多い。
企業のWEBが外注中心になって、アクティブXコントロールを駆使したもので、素人には複雑怪奇になっているおり、メンテナンスが不可能なことから、外注中心になっている。
ところが、「生命線」であるWEBのメンテコストを削減する動きさえもみられる。
つまり、メンテナンスも外注で維持コストが一層かかる様になっている為である。
WEB下請け企業は、そういった点も考えて敢えてメンテが素人には出来ない様なWEBを制作しているところも多い様だ。
コストを減らす為にメンテナンス頻度を落としたことで、もともと、「客を呼び込む」といった点が弱いWEB広告・宣伝の客離れが深刻化した。
WEBの場合は、一度去った客のリピートは期待出来ない。チラシとか、DMの場合は、リピートが原則だが、そういった宣伝効果は期待出来ない。
大企業も中小も、零細もWEBを外注していたら、メンテナンス経費・予算の格差が、そのままWEBの「広告性能・機能」に反映される。
つまり、IT社会になって、宣伝媒体がWEBに移行したことで、WEBメンテナンスコストの負担力の格差によって、企業間業績格差が一層拡大することになってしまった訳である。
○重たくて、つまらない(更新されない)WEBは、誰もみてくれない。
そんなWEB広告をする位ならば、従来のペーパーメディアや街頭キャンペーンとか電車広告等をやった方がマシである。
顧客とのダイレクトコミュニケーション効果を狙いたいのならば、ヤフオク等に企業出品した方が得。実際に、アンテナ効果を狙った企業出品も多くなっている。
利用者は、本当にアクティブXや音声、映像効果が発揮されたWEBを魅力的だと感じているのだろうか。
絶対にそんなことはないと思う。やはり、コンテンツの質である。
こうなると、稚拙な技術でも良いから中小・零細企業の人達は、自分でWEBを作成する技術を学んで、自分で文章を書いて、写真を撮影して、更新していく方がよい。
手書きのチラシ・カタログ、文章をデジカメで撮影して、WEBに貼り付けて表示させるだけでも面白いと思う。
また、中小・零細企業は、WEBよりもブログによる宣伝の方が、更新のしやすさの点で有利かも。
今、広告技術の稚拙さが新たな消費者にとっての魅力に変わり始めている。ガリ版出版が受けている様に、手作りWEBで10年前の昔に戻った方が、ずっと予算対宣伝効果が期待出来る筈。
☆☆☆
WEBタイムマシンで佛大通信教育部(BUCD)のWEBの変遷をみていて感じた。
佛大のWEB担当者が実に楽しみながら、自力でWEBを作成していた時は、WEBへの訪問者も多かった。
この様に広告媒体機能が順調に稼動していた時代の佛大は、全国の通信教育大学の中で、有数の学生数を誇っていたことを考えて欲しい。
メディア実習として、学生に通信教育部募集のPRWEBを企画して、作らせても良いと思う。
コンテストをやっても良いカモ。
応用社会学科が存在していた時代には、天野昭先生が自分のゼミの学生をいくつかのグループに分けて、WEBコンクールを実施していた。
WEBを作ることは、メディアというものの本質を考える時に大きな機会になる筈だ。
空白の10年間に続く、衰退の10年間で、日本経済は、著しく後退したが、それは、特に中堅以下の企業の業績が落ち込んだ為。
マーケットで言えば、内需がクルマ等の一部を除いて、冷え込んでいることが大きい。クルマは売れてもガソリンスタンドの倒産が相次いでいるのもおかしな話。
IT社会の進展で、中堅以下の企業、教育産業を含むサービス業は、WEBによる宣伝広告を中心に行う様になった。
従来の印刷媒体や宅配DMでは、コストがかかりすぎるということで、WEB広告が中心となった。この為、多くのペーパーメディアが倒産している。
一方、WEB広告については、殆どの企業が外注に依存している。
実は、これが危ない。つまり、外注は、一応オーダーメイドなので、広告主の要望は適えられるが、メンテナンスがおかしくなっているところが多い。
企業のWEBが外注中心になって、アクティブXコントロールを駆使したもので、素人には複雑怪奇になっているおり、メンテナンスが不可能なことから、外注中心になっている。
ところが、「生命線」であるWEBのメンテコストを削減する動きさえもみられる。
つまり、メンテナンスも外注で維持コストが一層かかる様になっている為である。
WEB下請け企業は、そういった点も考えて敢えてメンテが素人には出来ない様なWEBを制作しているところも多い様だ。
コストを減らす為にメンテナンス頻度を落としたことで、もともと、「客を呼び込む」といった点が弱いWEB広告・宣伝の客離れが深刻化した。
WEBの場合は、一度去った客のリピートは期待出来ない。チラシとか、DMの場合は、リピートが原則だが、そういった宣伝効果は期待出来ない。
大企業も中小も、零細もWEBを外注していたら、メンテナンス経費・予算の格差が、そのままWEBの「広告性能・機能」に反映される。
つまり、IT社会になって、宣伝媒体がWEBに移行したことで、WEBメンテナンスコストの負担力の格差によって、企業間業績格差が一層拡大することになってしまった訳である。
○重たくて、つまらない(更新されない)WEBは、誰もみてくれない。
そんなWEB広告をする位ならば、従来のペーパーメディアや街頭キャンペーンとか電車広告等をやった方がマシである。
顧客とのダイレクトコミュニケーション効果を狙いたいのならば、ヤフオク等に企業出品した方が得。実際に、アンテナ効果を狙った企業出品も多くなっている。
利用者は、本当にアクティブXや音声、映像効果が発揮されたWEBを魅力的だと感じているのだろうか。
絶対にそんなことはないと思う。やはり、コンテンツの質である。
こうなると、稚拙な技術でも良いから中小・零細企業の人達は、自分でWEBを作成する技術を学んで、自分で文章を書いて、写真を撮影して、更新していく方がよい。
手書きのチラシ・カタログ、文章をデジカメで撮影して、WEBに貼り付けて表示させるだけでも面白いと思う。
また、中小・零細企業は、WEBよりもブログによる宣伝の方が、更新のしやすさの点で有利かも。
今、広告技術の稚拙さが新たな消費者にとっての魅力に変わり始めている。ガリ版出版が受けている様に、手作りWEBで10年前の昔に戻った方が、ずっと予算対宣伝効果が期待出来る筈。
☆☆☆
WEBタイムマシンで佛大通信教育部(BUCD)のWEBの変遷をみていて感じた。
佛大のWEB担当者が実に楽しみながら、自力でWEBを作成していた時は、WEBへの訪問者も多かった。
この様に広告媒体機能が順調に稼動していた時代の佛大は、全国の通信教育大学の中で、有数の学生数を誇っていたことを考えて欲しい。
メディア実習として、学生に通信教育部募集のPRWEBを企画して、作らせても良いと思う。
コンテストをやっても良いカモ。
応用社会学科が存在していた時代には、天野昭先生が自分のゼミの学生をいくつかのグループに分けて、WEBコンクールを実施していた。
WEBを作ることは、メディアというものの本質を考える時に大きな機会になる筈だ。
一番大事な、「入学者募集中」という告知が、BUCDのトップページのどこを捜しても見当たらない ― 2011/03/10 11:08
このところ、BUCDのWEBの更新頻度が上がっている。
この大学の通信教育部のWEBは、更新の記録が一箇所に反映されて表示されてないので、WWWC等のWEBチェックソフトで都度、監視する以外に更新チェックの方法はない。
つまり、このBUCD(通信教育部WEBサイト)を見に来る人は、何時更新されたか判らない情報をみていることになるので、連絡や告知が機能していないのである。
今回の更新は、入学案内書請求方法なのであるが、これも更新リストにピックアップされていないので、WWWCによってようやく知ることが出来た。「NEW」とかそういったマークも表示されないので、どうしようもない。
それと、本当に呆れるのは、一番大事な、「入学者募集中」という告知が、BUCDのトップページのどこを捜しても見当たらない。
つまり、ユーザーは、いつから募集が始まっているのか、いつまでが締め切りなのかが表示されていないので、全く知ることが出来ない。
以前も管理者にお知らせしたが、嫌がらせと思われた様で、全く改善されていない。
ヨソの大学の通信教育は、宣伝にもっと熱心であるが、この学校は、何かズレている。
まぁ、こういったノンビリというか間抜けな点が面白いのであるが。
これ以上学生数が減少したら困るのは、大学の方だと思うが。
この大学の通信教育部のWEBは、更新の記録が一箇所に反映されて表示されてないので、WWWC等のWEBチェックソフトで都度、監視する以外に更新チェックの方法はない。
つまり、このBUCD(通信教育部WEBサイト)を見に来る人は、何時更新されたか判らない情報をみていることになるので、連絡や告知が機能していないのである。
今回の更新は、入学案内書請求方法なのであるが、これも更新リストにピックアップされていないので、WWWCによってようやく知ることが出来た。「NEW」とかそういったマークも表示されないので、どうしようもない。
それと、本当に呆れるのは、一番大事な、「入学者募集中」という告知が、BUCDのトップページのどこを捜しても見当たらない。
つまり、ユーザーは、いつから募集が始まっているのか、いつまでが締め切りなのかが表示されていないので、全く知ることが出来ない。
以前も管理者にお知らせしたが、嫌がらせと思われた様で、全く改善されていない。
ヨソの大学の通信教育は、宣伝にもっと熱心であるが、この学校は、何かズレている。
まぁ、こういったノンビリというか間抜けな点が面白いのであるが。
これ以上学生数が減少したら困るのは、大学の方だと思うが。
禁句「あんた暇やねぇ。」 ― 2011/03/04 09:26
禁句「あんた暇やねぇ。」
佛大四条センターでは、どうゆう訳か、お世話になっている学科のT先生と鉢合わせすることが多い。
先日もお弟子さん達2名と一緒に、四条センターの喫茶室でご一緒した。T先生は、美しい着物をお召しになっていらっしゃる。伊勢の国のご出身だが、一見、「京都風」になられている。
コーヒーをご馳走になった。
開口一番、「あんた暇やねぇ。」と大きな声でおっしゃられる。先日は、「あんた会社つぶれそうなんやって。」とこれも、大きな声でおっしゃられる。それで、周囲の人がこちらをみているので、思わず恥ずかしくなってしまった。
その時ほど、ブログに書くと碌なことがないということを痛感させられたことはない。
先生は、熱心な読者らしく、色々、細かなこともご存じなようだ。「あんた、ストーカーはあかんよ。」とこれもデカイ声で言われる。
学会の発表や発言の時は、非常に小さな声で、上品な関西弁なので、聴き取りにくいが日常会話では、声が大きすぎる。
同じ佛大のA先生と同じ女子大のご出身なので、いろいろと御交流があるらしいので、某メールのこともご存じな様子であった。
それにしても「あんた暇やねぇ。」は禁句だと思う。僕ぐらい人間で、しかし、世間の人達よりもずっと暇で好きなことをしてられる大学教授からそういわれたら、もう終わりだし。実際には、そんな筈もない。
色々と時間をヤリクリしないと、僕位の年代の人は、カルチャー系の講座には、出席出来ないだろう。そうなると更に生徒さんが減ることになる。
大学院が社会人入学というか団塊世代の「準高齢者」の入学の場となって、「N先生の俳句学校」と化しているのもこの様な社会現象だと思う。N先生とは、NHKのカルチャーで知り合いになって、同人に入って、そのまま大学院まで来ているという。
日本で唯一の俳句専門大学院というのもそういった意味で良いかも知れないが、自分の様に中古文学とか他の分野を専攻している人。あるいは、「現役」で大学院に入って来ている若い人には、迷惑な話だと思う。
それこそ、「あんた暇やねぇ。」ということになる。
佛大四条センターでは、どうゆう訳か、お世話になっている学科のT先生と鉢合わせすることが多い。
先日もお弟子さん達2名と一緒に、四条センターの喫茶室でご一緒した。T先生は、美しい着物をお召しになっていらっしゃる。伊勢の国のご出身だが、一見、「京都風」になられている。
コーヒーをご馳走になった。
開口一番、「あんた暇やねぇ。」と大きな声でおっしゃられる。先日は、「あんた会社つぶれそうなんやって。」とこれも、大きな声でおっしゃられる。それで、周囲の人がこちらをみているので、思わず恥ずかしくなってしまった。
その時ほど、ブログに書くと碌なことがないということを痛感させられたことはない。
先生は、熱心な読者らしく、色々、細かなこともご存じなようだ。「あんた、ストーカーはあかんよ。」とこれもデカイ声で言われる。
学会の発表や発言の時は、非常に小さな声で、上品な関西弁なので、聴き取りにくいが日常会話では、声が大きすぎる。
同じ佛大のA先生と同じ女子大のご出身なので、いろいろと御交流があるらしいので、某メールのこともご存じな様子であった。
それにしても「あんた暇やねぇ。」は禁句だと思う。僕ぐらい人間で、しかし、世間の人達よりもずっと暇で好きなことをしてられる大学教授からそういわれたら、もう終わりだし。実際には、そんな筈もない。
色々と時間をヤリクリしないと、僕位の年代の人は、カルチャー系の講座には、出席出来ないだろう。そうなると更に生徒さんが減ることになる。
大学院が社会人入学というか団塊世代の「準高齢者」の入学の場となって、「N先生の俳句学校」と化しているのもこの様な社会現象だと思う。N先生とは、NHKのカルチャーで知り合いになって、同人に入って、そのまま大学院まで来ているという。
日本で唯一の俳句専門大学院というのもそういった意味で良いかも知れないが、自分の様に中古文学とか他の分野を専攻している人。あるいは、「現役」で大学院に入って来ている若い人には、迷惑な話だと思う。
それこそ、「あんた暇やねぇ。」ということになる。
パワーを対象に放射して初めてみえるモノ ― 2011/02/28 22:58
今日は、佛大四条センターで安藤先生の講義を受講した。
今日も、法隆寺の壁画について、以前も同じ内容のお話を聞いたのだが、今日、再度、同じお話を聞いて、別な発見があった。それは、つまり、壁画の配置によって画風が異なるのは、何故かという点について、常日頃疑問に思っていた点で、ある仮説が閃いたから。
それは、ここでは書かないが、それは、やはり表現上の意図というものがある。もし、法隆寺の金堂壁画が焼失せず、現在まで、残っていたら、仏教絵画史の研究は、かなり、今の様子とは異なっていただろうし、7世紀の仏教の世界観、宇宙観について解明が進んだと思う。
僕が、安藤先生に惹かれるのは、「ものの見方」である。俳句でも写生とかそうゆうのがあるが、僕は、写生というのは、客観的な分析に基づくものであると思っていた。
しかし、実際、仏教の根本的な思想を顧みれば、客観的な写生とか分析は、不可能である。つまり、無我の境で、客体の絶対的な分析と認識は不可能であるという点である。
それは、仏画、仏像でも同じである。つまり、「見る」ということは、凄いパワーが伴うということである。つまり、仏像や仏画等の対象について、自らの意識のパワーを放射し、意識の中に取り込んで、自己の認識との一体化を図って、初めて、新たな分析と発見が可能になる。
ただ単に目を凝らしてみても駄目だし、数百、数千とみても、自己認識との一体化がされなければ、全く無意味である点である。
例えば、グプタ朝唐草とか、蓮華文の生命力について、安藤先生は目で見て認識しているが、それが、何故、生命のエネルギーに結びつくか、客観的な説明は不可能で、自己認識の世界で、感じ取ったことなんだと思う。
例えば、蓮華化生とかそういった図案との関連性を説明づけることで、形式的な照明は可能だが、何故、あのパワーが渦巻きを産み出すのかだとか、そういった説明は、実証不可能である。
安藤先生が物を「見る」時、凄いパワーが照射される。私も先生にお逢いして、そのパワーに圧倒されるというか、感受性の高い人や霊力が強い人にとっては、少し危険な程である。
しかし、優れたものを感じ取るという眼力と言うものは、本来そうであり、その様な人でなければ、仏教美術の神髄について、直接的に感得することは難しいのではないだろうか。
今日も、法隆寺の壁画について、以前も同じ内容のお話を聞いたのだが、今日、再度、同じお話を聞いて、別な発見があった。それは、つまり、壁画の配置によって画風が異なるのは、何故かという点について、常日頃疑問に思っていた点で、ある仮説が閃いたから。
それは、ここでは書かないが、それは、やはり表現上の意図というものがある。もし、法隆寺の金堂壁画が焼失せず、現在まで、残っていたら、仏教絵画史の研究は、かなり、今の様子とは異なっていただろうし、7世紀の仏教の世界観、宇宙観について解明が進んだと思う。
僕が、安藤先生に惹かれるのは、「ものの見方」である。俳句でも写生とかそうゆうのがあるが、僕は、写生というのは、客観的な分析に基づくものであると思っていた。
しかし、実際、仏教の根本的な思想を顧みれば、客観的な写生とか分析は、不可能である。つまり、無我の境で、客体の絶対的な分析と認識は不可能であるという点である。
それは、仏画、仏像でも同じである。つまり、「見る」ということは、凄いパワーが伴うということである。つまり、仏像や仏画等の対象について、自らの意識のパワーを放射し、意識の中に取り込んで、自己の認識との一体化を図って、初めて、新たな分析と発見が可能になる。
ただ単に目を凝らしてみても駄目だし、数百、数千とみても、自己認識との一体化がされなければ、全く無意味である点である。
例えば、グプタ朝唐草とか、蓮華文の生命力について、安藤先生は目で見て認識しているが、それが、何故、生命のエネルギーに結びつくか、客観的な説明は不可能で、自己認識の世界で、感じ取ったことなんだと思う。
例えば、蓮華化生とかそういった図案との関連性を説明づけることで、形式的な照明は可能だが、何故、あのパワーが渦巻きを産み出すのかだとか、そういった説明は、実証不可能である。
安藤先生が物を「見る」時、凄いパワーが照射される。私も先生にお逢いして、そのパワーに圧倒されるというか、感受性の高い人や霊力が強い人にとっては、少し危険な程である。
しかし、優れたものを感じ取るという眼力と言うものは、本来そうであり、その様な人でなければ、仏教美術の神髄について、直接的に感得することは難しいのではないだろうか。
もし活せずんば、人に怪笑せられん ― 2011/02/26 22:36
「啐啄同時」ということば、佛大WEBの今月のことばに載っている。
http://subwww.bukkyo-u.ac.jp/view/dsc_tpc.php?id=4126&place=word&from=2011&PHPSESSID=4297cba67257d710ea85a0a06ed4cf05
無学なので、知らなかったが、宋代に成立した『碧巌録』 という仏典にあることばだそうだ。
WIKIってみると、『碧巌録』とは、『仏果圜悟禅師碧巌録』とも呼ばれ、宋時代に圜悟克勤によって著された公案集で、全10巻。
「啐啄同時」
僧、鏡清に問う、学人啐す、請う師、啄せよ
清云く、還って活くることを得るや
僧云く、もし活せずんば、人に怪笑せられん
清云く、また是れ草裏の漢
穿った見方をすれば、つまり、阿呆な学生が、「就職もやっと内定もらいました。お願いですから、卒業させてください。(単位点数の)下駄を履かせて欲しい。」と教授にお願いしているようなことだと思う。
実際には、もっと高尚で、修行をしている弟子に悟りの機会を与えること。
師匠は、外からも内からも無心でつついているので、生まれることが出来るので、意図的に助けたり、助けらたりするものではないことを示唆している。
教育学の先生が如何にも使いそうな「ことば」だが、以前、ビデオでみたが、鶏のヒヨコが内側から殻を突いて、今、生まれて来ようとしてくるヒナ鳥を助けようと、親鶏も懸命に、殻の外から突いて無事、孵化させようとしている。
全て、本能だが、そこには、無意識の親子の愛が感じられる。
今の養鶏業界では、自動孵卵器でヒヨコは生まれてくるので、こんな親の愛も受けられないし、今日も、明日も、多くの鶏達が、鳥インフルの殺処分で、何十万羽、何百万羽と処理されていく。
以前、池の白鳥が、風切り羽を切られて飛べなくされている為に、鳥インフルに感染したと報道されていたが、鳥は、本能で、そういった病気の危険を察知して、飛び立つことで感染を防いでいる。
もともと、元気がない鳥は、逃げ遅れるので、病死する。
ところが、人間の勝手で飼われている鳥は、元気でも弱くても、親がどんなに愛情を注いでいても、鳥インフルに感染して処分されている。
親子の愛を引き裂いて、更に、卵も奪い、鳥を狭いところに閉じこめる罪深い人間の仕打ちを考えると、僕もこういった業界に関わっているので、罪深いことだと日々考えている。
http://subwww.bukkyo-u.ac.jp/view/dsc_tpc.php?id=4126&place=word&from=2011&PHPSESSID=4297cba67257d710ea85a0a06ed4cf05
無学なので、知らなかったが、宋代に成立した『碧巌録』 という仏典にあることばだそうだ。
WIKIってみると、『碧巌録』とは、『仏果圜悟禅師碧巌録』とも呼ばれ、宋時代に圜悟克勤によって著された公案集で、全10巻。
「啐啄同時」
僧、鏡清に問う、学人啐す、請う師、啄せよ
清云く、還って活くることを得るや
僧云く、もし活せずんば、人に怪笑せられん
清云く、また是れ草裏の漢
穿った見方をすれば、つまり、阿呆な学生が、「就職もやっと内定もらいました。お願いですから、卒業させてください。(単位点数の)下駄を履かせて欲しい。」と教授にお願いしているようなことだと思う。
実際には、もっと高尚で、修行をしている弟子に悟りの機会を与えること。
師匠は、外からも内からも無心でつついているので、生まれることが出来るので、意図的に助けたり、助けらたりするものではないことを示唆している。
教育学の先生が如何にも使いそうな「ことば」だが、以前、ビデオでみたが、鶏のヒヨコが内側から殻を突いて、今、生まれて来ようとしてくるヒナ鳥を助けようと、親鶏も懸命に、殻の外から突いて無事、孵化させようとしている。
全て、本能だが、そこには、無意識の親子の愛が感じられる。
今の養鶏業界では、自動孵卵器でヒヨコは生まれてくるので、こんな親の愛も受けられないし、今日も、明日も、多くの鶏達が、鳥インフルの殺処分で、何十万羽、何百万羽と処理されていく。
以前、池の白鳥が、風切り羽を切られて飛べなくされている為に、鳥インフルに感染したと報道されていたが、鳥は、本能で、そういった病気の危険を察知して、飛び立つことで感染を防いでいる。
もともと、元気がない鳥は、逃げ遅れるので、病死する。
ところが、人間の勝手で飼われている鳥は、元気でも弱くても、親がどんなに愛情を注いでいても、鳥インフルに感染して処分されている。
親子の愛を引き裂いて、更に、卵も奪い、鳥を狭いところに閉じこめる罪深い人間の仕打ちを考えると、僕もこういった業界に関わっているので、罪深いことだと日々考えている。
各国の社会・経済をお風呂の水に例えると ― 2011/02/22 11:42
佛大の現代社会学の講座で、インターネットメディアを媒介とした、大衆革命の可能性について、ある先生から習った。それは、単なる情報や思想、文化、経済の改革ではなくて、20世紀型の資本主義世界の崩壊を導くかも知れないということであった。
今から数年前のことだったけれど、私には、信じられなかったが、実際にエジプトやリビア等、更には中東全体、やがては、中国へと、民衆革命の動きをみていると現実感が見えてきた。
ただ、こうした革命の背景をみると、情報とかそういったものもあるが、実際の庶民の最低生活レベルが一段と下がってきていることが大きい。
つまり、各国の社会・経済をお風呂の水に例えると、日本のお風呂は、かき混ぜてみると、濁ったぬるま湯という感じだが、例えば、世界第2位の経済大国となった中国をみると、たしか、表面2~3㎝は、アチチだが、かき混ぜてみると、茶色い冷水になってしまう。
つまり、アラブとかそういった一見、豊かそうにみえる国家でも、お風呂をかき混ぜてみると、本当に冷たく、汚れた水になってしまう。そこに貧しさが隠れている。
また、これまでは、いくら貧しくても民衆の暴動、革命は起こらなかったが、アメリカの賭博型市場主義がリーマンショック後、再び蘇生し、実際の穀物の需給情勢以上に価格が高騰してしまった為に、小麦、とうもろこし、畜産品その他の食料費の大幅な上昇が、民衆の生活を一層、苦しいものにしている。
日経新聞等は、市場経済を否定出来ない立場にあるから、バイオエネルギー政策への批判記事を載せているが、もし、シカゴ穀物定期市場等でも、健全な価格決定機能を備えておれば、せいぜい、とうもろこしの値段は、4~5ドル程度(これでも高いが)で、今の様な7ドルっといった相場は、出てこない筈で、民衆・人民への影響は、それ程拡大しない。
幸い、日本は、国民が大人しく、円市場が海外の投資アイテムになっている為に円高推移になっている恩恵をうけて、海外の穀物高騰の影響は抑えられているが、それも時間の問題。
今の民主党政権、党内に離反者が現れて、内部崩壊が始まっているが、これがエジプトならば、首都東京で、100万人のデモが行われ、治安部隊との戦闘が行われている筈。
日本人は、大人しいヤプーである。
今から数年前のことだったけれど、私には、信じられなかったが、実際にエジプトやリビア等、更には中東全体、やがては、中国へと、民衆革命の動きをみていると現実感が見えてきた。
ただ、こうした革命の背景をみると、情報とかそういったものもあるが、実際の庶民の最低生活レベルが一段と下がってきていることが大きい。
つまり、各国の社会・経済をお風呂の水に例えると、日本のお風呂は、かき混ぜてみると、濁ったぬるま湯という感じだが、例えば、世界第2位の経済大国となった中国をみると、たしか、表面2~3㎝は、アチチだが、かき混ぜてみると、茶色い冷水になってしまう。
つまり、アラブとかそういった一見、豊かそうにみえる国家でも、お風呂をかき混ぜてみると、本当に冷たく、汚れた水になってしまう。そこに貧しさが隠れている。
また、これまでは、いくら貧しくても民衆の暴動、革命は起こらなかったが、アメリカの賭博型市場主義がリーマンショック後、再び蘇生し、実際の穀物の需給情勢以上に価格が高騰してしまった為に、小麦、とうもろこし、畜産品その他の食料費の大幅な上昇が、民衆の生活を一層、苦しいものにしている。
日経新聞等は、市場経済を否定出来ない立場にあるから、バイオエネルギー政策への批判記事を載せているが、もし、シカゴ穀物定期市場等でも、健全な価格決定機能を備えておれば、せいぜい、とうもろこしの値段は、4~5ドル程度(これでも高いが)で、今の様な7ドルっといった相場は、出てこない筈で、民衆・人民への影響は、それ程拡大しない。
幸い、日本は、国民が大人しく、円市場が海外の投資アイテムになっている為に円高推移になっている恩恵をうけて、海外の穀物高騰の影響は抑えられているが、それも時間の問題。
今の民主党政権、党内に離反者が現れて、内部崩壊が始まっているが、これがエジプトならば、首都東京で、100万人のデモが行われ、治安部隊との戦闘が行われている筈。
日本人は、大人しいヤプーである。
自分で作品を作らない人の解釈と研究は、自分でも作品を作る人とかなり、認識のギャップがあると思う(修正) ― 2011/02/17 20:23
自分で俳句を作るようになって、良くも悪しくも自分は変わった。
大学を卒業後、社会に出て佛大で学びながら平安朝文学・絵画について3つばかりの論文を書いたが、自分で作品を作らない人の解釈と研究は、自分でも作品を作る人とかなり、認識のギャップがあると思う。
実際に作品を作りながら私は、詩歌については、その限られた制約の中で、作者の言いたいことを織り込んでいるので、文字になっていない部分までも、深い洞察と理解が必要である。ただ単に文字面に即した解釈を行っても意味として成り立つが、それでは、作者の本当に言いたい部分が汲み取れない部分があるとの考えを持つに至った。
写真は、「秀家の無念」の地下深く埋もれてしまった彼が築城した時の石垣である。
私のような程度の低い人間の作品でもこんな訳なので、偉大な作者の作品では、もっともっと深いメタファーが存在している筈である。そんなことを考えてみると、私が独りよがりの考えを述べた「大和物語の切断形式について」の論文も、結局は、俳句の世界につながる物語の世界を模索したものであるが、もう少し、この物語の作中人物、和歌、作家の心情まで読み取って、その表現手法について考えてみることが必要であったと思う。
追記:1晩考えたら、やはり、「春の城」の方が、良いと思った。
実にいい加減なものである。
大学を卒業後、社会に出て佛大で学びながら平安朝文学・絵画について3つばかりの論文を書いたが、自分で作品を作らない人の解釈と研究は、自分でも作品を作る人とかなり、認識のギャップがあると思う。
実際に作品を作りながら私は、詩歌については、その限られた制約の中で、作者の言いたいことを織り込んでいるので、文字になっていない部分までも、深い洞察と理解が必要である。ただ単に文字面に即した解釈を行っても意味として成り立つが、それでは、作者の本当に言いたい部分が汲み取れない部分があるとの考えを持つに至った。
写真は、「秀家の無念」の地下深く埋もれてしまった彼が築城した時の石垣である。
私のような程度の低い人間の作品でもこんな訳なので、偉大な作者の作品では、もっともっと深いメタファーが存在している筈である。そんなことを考えてみると、私が独りよがりの考えを述べた「大和物語の切断形式について」の論文も、結局は、俳句の世界につながる物語の世界を模索したものであるが、もう少し、この物語の作中人物、和歌、作家の心情まで読み取って、その表現手法について考えてみることが必要であったと思う。
追記:1晩考えたら、やはり、「春の城」の方が、良いと思った。
実にいい加減なものである。
やっぱり「人間性」やな ― 2011/02/12 13:27
やっぱり「人間性」やな。
今月の佛大ワールドを読んでいる。佛大通信が家に届かなくなってからは、毎月引き落とされる寄付金だけがこの学校とのつながりだが、佛大ワールドだけは、ネットで読めるので毎月読んでいる。
http://www.bunet.jp/world/html/23_2/545_meigen/index.html
別にこの佛大ワールドは、テーマを決めて編集されているのではないのだが、今月は、まさに、「人間性」という部分に焦点が当てられている様な感じがする。
別にそのテーマを決めて投稿されたり、原稿を集めたりといったことではないのだろうが、この大学の先生方が興味を持たれている点が共通しているのであろう。
「私のこの一冊」その23 中島敦全集
教育学部臨床心理学科の荒井真太郎先生の文章であるが、高校時代における中島敦の山月記との出逢い、「名人伝」における「道」の概念とその先にある領域に感心を持ったという。
結局、一芸を極めると、最後に残るのは、弓とかそういったマテリアルではなくて、「人間性」という純化された存在である。
この作品の「人間性」に光りを当てる時に、作品から更に、作家へと洞察の目が移ってくる。それは、クライアントの「病跡」を追跡・観察する臨床心理学への道とどこかでつながっている。
☆☆☆
「愛を読むひと」が問う加害者と被害者の両義性
これは、私が佛大通信社会学部でお世話になった松田智子先生の原稿である。「朗読者The Reader」という映画について文章を書かれている。
舞台は、第2次世界大戦後のドイツで、主人公は、ナチスドイツの強制収容所での守衛(看守)をしていたハンナという女性と、ミヒャエルという15歳の青年である。
街の通りで気分が悪くなったミヒャエルは、ハンナに救われる。そのことがきっかけで、ミヒャエルとハンナは仲良くなり、男女の関係になる。彼らの楽しみのひとときは、ミヒャエルがハンナに本の朗読をする時間である。
ハンナは文盲であった。
その後、ハンナの仕事上の功績からホワイトカラーに取り立てられるが、文盲なので不可能で、そのことを恥じてか、2人の関係は消滅する。
その後、数年が経過し、ハンナは、ナチス戦犯で逮捕された。ミヒャエルは、弁護士の卵であったので、その裁判を傍聴する。ハンナは、文盲であることを隠すために終身刑という重罪を受け入れてしまう。
ミヒャエルは、獄中にいるハンナに本を朗読したテープを送り続ける。獄中のハンナとミヒャエルの人間性は再びテープを媒介に結ばれていた。
ところが、恩赦になってハンナが出獄して来た時、彼のイメージとは全く異なった老婆になっており、ミヒャエルは愛情を失う。
ハンナは絶望の余り自ら命を絶つ。
松田先生は、このミヒャエルとハンナとの関係について、たしかにハンナは、許し難い犯罪を犯したが、実は、ミヒャエルを助けて、その後の関係は、文盲という障害を乗り越えて、2人の人間性の絆は結ばれた。加害者と被害者との両義性と言うのは、実は、人間性の葛藤でもある。
社会学では、この問題をヒューマニティという視点から扱うが、人間の「愛と苦悩」といった問題にまで、どこまで踏み込むことが出来るのだろうか。
最後に月々の名言では、坪内捻典先生が何時も文章を書かれている。今回は、会津八一をいう歌人・書家を取り上げている。ひらがな書きの和歌には違和感を覚えるという先生、早稲田大学の演劇博物館に掲げられた学規を目にする。
一 ふかくこの生を愛すべし
一 かへりみて己を知るべし
一 学芸を以て性を養うべし
一 日々新面目あるべし
秋艸道人(八一の雅号)
この額がよいと先生は思われた。その理由は、あくまでも学生への要求だが、それは、教師と学生が同じく目指す、人間性への目標だからだろう。
自己肯定が、第一で、同時に自己批判(分析)も必要である。そうした上で、学芸によって、性「人間性」を涵養し、常に新しいことに興味を持って挑戦する姿勢である。
いかにも人間性を肯定され、教師、生徒の分け隔てなくて、気さくな捻典先生らしい文章だと思う。
やはり、「人間性」というのは、否定的なものの見方からは、生まれてこないのだろう。
そうした視点でみれば、あの松田先生の映画に出てきたハンナと言う女性の姿がオーバーラップしてくるのである。
☆☆☆
今月の佛大ワールドは、稔典先生以外は、文学と関係無い人たちが文章を書いているので、あまり読む気持ちにはなれなかったが、実際に目にすると内容が濃厚で読むだけの価値があるものだったと思う。
今月の佛大ワールドを読んでいる。佛大通信が家に届かなくなってからは、毎月引き落とされる寄付金だけがこの学校とのつながりだが、佛大ワールドだけは、ネットで読めるので毎月読んでいる。
http://www.bunet.jp/world/html/23_2/545_meigen/index.html
別にこの佛大ワールドは、テーマを決めて編集されているのではないのだが、今月は、まさに、「人間性」という部分に焦点が当てられている様な感じがする。
別にそのテーマを決めて投稿されたり、原稿を集めたりといったことではないのだろうが、この大学の先生方が興味を持たれている点が共通しているのであろう。
「私のこの一冊」その23 中島敦全集
教育学部臨床心理学科の荒井真太郎先生の文章であるが、高校時代における中島敦の山月記との出逢い、「名人伝」における「道」の概念とその先にある領域に感心を持ったという。
結局、一芸を極めると、最後に残るのは、弓とかそういったマテリアルではなくて、「人間性」という純化された存在である。
この作品の「人間性」に光りを当てる時に、作品から更に、作家へと洞察の目が移ってくる。それは、クライアントの「病跡」を追跡・観察する臨床心理学への道とどこかでつながっている。
☆☆☆
「愛を読むひと」が問う加害者と被害者の両義性
これは、私が佛大通信社会学部でお世話になった松田智子先生の原稿である。「朗読者The Reader」という映画について文章を書かれている。
舞台は、第2次世界大戦後のドイツで、主人公は、ナチスドイツの強制収容所での守衛(看守)をしていたハンナという女性と、ミヒャエルという15歳の青年である。
街の通りで気分が悪くなったミヒャエルは、ハンナに救われる。そのことがきっかけで、ミヒャエルとハンナは仲良くなり、男女の関係になる。彼らの楽しみのひとときは、ミヒャエルがハンナに本の朗読をする時間である。
ハンナは文盲であった。
その後、ハンナの仕事上の功績からホワイトカラーに取り立てられるが、文盲なので不可能で、そのことを恥じてか、2人の関係は消滅する。
その後、数年が経過し、ハンナは、ナチス戦犯で逮捕された。ミヒャエルは、弁護士の卵であったので、その裁判を傍聴する。ハンナは、文盲であることを隠すために終身刑という重罪を受け入れてしまう。
ミヒャエルは、獄中にいるハンナに本を朗読したテープを送り続ける。獄中のハンナとミヒャエルの人間性は再びテープを媒介に結ばれていた。
ところが、恩赦になってハンナが出獄して来た時、彼のイメージとは全く異なった老婆になっており、ミヒャエルは愛情を失う。
ハンナは絶望の余り自ら命を絶つ。
松田先生は、このミヒャエルとハンナとの関係について、たしかにハンナは、許し難い犯罪を犯したが、実は、ミヒャエルを助けて、その後の関係は、文盲という障害を乗り越えて、2人の人間性の絆は結ばれた。加害者と被害者との両義性と言うのは、実は、人間性の葛藤でもある。
社会学では、この問題をヒューマニティという視点から扱うが、人間の「愛と苦悩」といった問題にまで、どこまで踏み込むことが出来るのだろうか。
最後に月々の名言では、坪内捻典先生が何時も文章を書かれている。今回は、会津八一をいう歌人・書家を取り上げている。ひらがな書きの和歌には違和感を覚えるという先生、早稲田大学の演劇博物館に掲げられた学規を目にする。
一 ふかくこの生を愛すべし
一 かへりみて己を知るべし
一 学芸を以て性を養うべし
一 日々新面目あるべし
秋艸道人(八一の雅号)
この額がよいと先生は思われた。その理由は、あくまでも学生への要求だが、それは、教師と学生が同じく目指す、人間性への目標だからだろう。
自己肯定が、第一で、同時に自己批判(分析)も必要である。そうした上で、学芸によって、性「人間性」を涵養し、常に新しいことに興味を持って挑戦する姿勢である。
いかにも人間性を肯定され、教師、生徒の分け隔てなくて、気さくな捻典先生らしい文章だと思う。
やはり、「人間性」というのは、否定的なものの見方からは、生まれてこないのだろう。
そうした視点でみれば、あの松田先生の映画に出てきたハンナと言う女性の姿がオーバーラップしてくるのである。
☆☆☆
今月の佛大ワールドは、稔典先生以外は、文学と関係無い人たちが文章を書いているので、あまり読む気持ちにはなれなかったが、実際に目にすると内容が濃厚で読むだけの価値があるものだったと思う。
「極楽往生」の話をしているが、母親と同様にスマナサーラ師もそんなものがないという ― 2011/02/11 18:16
今日、暇つぶしにこれを読んでしまったが、まぁ、面白かった。
スマナサーラ師のお話よりも寂聴さんのお話の方が、面白かった。残りのゲストは、山折哲雄さん以外は、つまらない。
この本、学研が出しているが、僕が、科学と学習を購読していた1970年代前半までは、まともな出版社であったが、今は、「とんでも本」のメッカである。
宗教を否定する共産党系の清風堂さん等は、学研の本は、殆ど置いていない。
しかし、1つの文化的トレンドとしてみれば面白い。日本文化というのは、グローバルに評価されているのは、アンダーグラウンドやアニメ、ゲーム等で、真面目な宗教や文学等は、世界の動きの中でマイナーな存在である。
仏教に関しても、世界的な視点でみれば、日本仏教というのは、オウムの信者が語っていた様に「風景」、「観光名所」、「文化遺産」でしかない。
今、世界の新興宗教のトレンドは、やはりカルトである。仏教系カルトもあるが、カルトと言わなくても、日本語文化圏以外で信仰されているのは、スマナサーラの「テーラワーダ」か、ダライラマのチベット密教である。
テーラワーダが初期仏教・仏教の始原の姿を示しているというのは、少しおかしいと思うが、日本の既存仏教が、大乗に対する小乗と蔑んできた一方で、本来のブッダの教えとは、かなりかけ離れてしまっている点をみれば、この本を読んでみる価値がある。
「仏教は宗教ではない。」という宮崎哲弥さんの考え方は、佛大の松田先生と共通しているが、実際のテーラワーダは、チベット系カルトと同様に瞑想があったりして、多分に儀式的である。結局、儀式性が強い集団活動となれば、政治結社から宗教結社、カルトしかないので、やはり、1つの宗教の一派ではないかと覚めた目でみてしまう。
テーラワーダによれば、如来も菩薩も存在しない。当然、仏像とか仏教芸術等もない。
じゃあ、あの阿弥陀如来をみて感じられるヒーリング・癒し効果はなんなんだろう。
自己存在の意識的な否定というのが解脱につながるというが、そうした意識を失ってしまえば、解脱とかそういったことも意味をなさなくなってしまうのではないだろうか。
テーラワーダの動きについて、浄土系の既存仏教の人が反論も書いているが、結局、どれが正しく、どれが駄目ということはない。
母親に実家に帰る度に「極楽往生」の話をしているが、母親と同様にスマナサーラ師もそんなものがないという。「出来れば、僕は、阿弥陀如来の側には行きたくないですね。」と述べておられる。
まぁ、合理的に突き詰めて自己存在を否定することで、色々な苦しみや不安が取り除けるのはよいと思うが、それはなかなか難しいと思う。
私、個人の考えとしては、ブッダについては、人間ブッダとして、その生き方や価値観を客観的にみていくことが大事だと思うが、2千年以上も経過した人について客観的に評価することは難しいと思う。
スマナサーラ師のお話よりも寂聴さんのお話の方が、面白かった。残りのゲストは、山折哲雄さん以外は、つまらない。
この本、学研が出しているが、僕が、科学と学習を購読していた1970年代前半までは、まともな出版社であったが、今は、「とんでも本」のメッカである。
宗教を否定する共産党系の清風堂さん等は、学研の本は、殆ど置いていない。
しかし、1つの文化的トレンドとしてみれば面白い。日本文化というのは、グローバルに評価されているのは、アンダーグラウンドやアニメ、ゲーム等で、真面目な宗教や文学等は、世界の動きの中でマイナーな存在である。
仏教に関しても、世界的な視点でみれば、日本仏教というのは、オウムの信者が語っていた様に「風景」、「観光名所」、「文化遺産」でしかない。
今、世界の新興宗教のトレンドは、やはりカルトである。仏教系カルトもあるが、カルトと言わなくても、日本語文化圏以外で信仰されているのは、スマナサーラの「テーラワーダ」か、ダライラマのチベット密教である。
テーラワーダが初期仏教・仏教の始原の姿を示しているというのは、少しおかしいと思うが、日本の既存仏教が、大乗に対する小乗と蔑んできた一方で、本来のブッダの教えとは、かなりかけ離れてしまっている点をみれば、この本を読んでみる価値がある。
「仏教は宗教ではない。」という宮崎哲弥さんの考え方は、佛大の松田先生と共通しているが、実際のテーラワーダは、チベット系カルトと同様に瞑想があったりして、多分に儀式的である。結局、儀式性が強い集団活動となれば、政治結社から宗教結社、カルトしかないので、やはり、1つの宗教の一派ではないかと覚めた目でみてしまう。
テーラワーダによれば、如来も菩薩も存在しない。当然、仏像とか仏教芸術等もない。
じゃあ、あの阿弥陀如来をみて感じられるヒーリング・癒し効果はなんなんだろう。
自己存在の意識的な否定というのが解脱につながるというが、そうした意識を失ってしまえば、解脱とかそういったことも意味をなさなくなってしまうのではないだろうか。
テーラワーダの動きについて、浄土系の既存仏教の人が反論も書いているが、結局、どれが正しく、どれが駄目ということはない。
母親に実家に帰る度に「極楽往生」の話をしているが、母親と同様にスマナサーラ師もそんなものがないという。「出来れば、僕は、阿弥陀如来の側には行きたくないですね。」と述べておられる。
まぁ、合理的に突き詰めて自己存在を否定することで、色々な苦しみや不安が取り除けるのはよいと思うが、それはなかなか難しいと思う。
私、個人の考えとしては、ブッダについては、人間ブッダとして、その生き方や価値観を客観的にみていくことが大事だと思うが、2千年以上も経過した人について客観的に評価することは難しいと思う。

最近のコメント