仏教芸能の殿堂、善光寺「大チベット祭り」2009/05/04 09:00

CyberShotDSC-W120で撮影
 昨日は、弟が急に帰ってきたので家に居づらくなって遁走。

 今年のゴールデンウィークは、昨年よりもずっと景気が良くなったみたいで、街中人で溢れかえっているし、カプセルホテルだって全室満員、サウナもイモを洗う様なありさまで仮眠場所もない、散々な一日だった。

 早く連休がオワラナイカナーということで、5月7~11日にかけて、なんと信州信濃善光寺で「大チベット祭」が行われる。
http://www3.ocn.ne.jp/~kaizenji/tibet-fes.html

 真面目なイベントで、仏教芸能の祭典である。

 声明、チベット僧院の仮面舞踏、砂曼荼羅、瞑想体験、説法印阿弥陀仏を経典の本文に忠実に作り上げる。そのた、落語、映画等多種多彩の内容。

 是非いってみたいが、9日は、斎藤先生の講座なので、その日の午後に出発して、晩には信濃に到着、ちらっとイベントをみてトンボ帰りしか方法はない。これだけの内容なのに実にもったいない。なんで連休中に開催してくれないのだろうか。

 写真は全く関係ない四日市諏訪神社のクスノキ。実に生きているようだった。

パラダイムと神話の読み替えという社会現象2009/05/04 20:50

『読み替えられた日本神話』(斎藤英喜,2006,講談社新書)

 8世紀のグローバリズムの中での日本神話の位置づけ、日本書記、古事記の成立事情に関しての斎藤先生の理論付けは、それなりに納得できるものであり、「日本神話の読み替え」というテーマのモティーフになるものである。

 中世日本紀の世界では、神仏習合や王権から武士への政権交代、元寇等の日本をめぐる国際情勢の変化等の社会状況の変化を背景に日本書記が大きく「読み替え」られ、あらたな位置づけを受けた時代であった。

 本居宣長の「古事記伝」は、中世以来の様々な曲説を退け、文献学の立場から純粋な本文批判を行い、これまで忘れ去られていた「古事記」を江戸の世の中に知らしめた。

 近世は、メディア革新の時代でもあった。これまでは秘密のベールに隠されていた日本神話が、広く印刷物として庶民にも読まれる様になるが、同時に普遍的な注釈、理論付けも求められていった時代で、これらの動きが、江戸期の様々な思想の影響を受けて、新しいパラダイムを思考する神話に生まれ変わる。

 近代以降は、神仏分離に始まり、国家神道、軍国主義に日本神話が「読み替えられた」時代であった。戦後は、こうした戦前、戦中の忌まわしい記憶から日本神話が敬遠された時期もあったが、1970年代を過ぎて、ようやく、徐々に、「すなおな心」で日本神話に向き合うことが出来る時代になった。

 グローバルメディアの発展で宮崎アニメ等を世界的に評価を受ける様になり、日本が文化の発信地となりつつある。

 宮崎アニメのもののけ姫やナウシカ、ラピュタ等の作品には、神話・伝承とおぼしきものが描かれている。特に斎藤氏が注目するのは、もののけ姫は、たたら製鉄、そして、それに纏わる信仰や神話、伝説に関係がある。

 ラピュタやその他の作品では、主人公達は、「飛行力」を有しているが、もののけ姫やナウシカの主人公達は飛行力をもたない。つまり、「超人性」の面で、他の作品の主人公達と区別、分類されるべきである。
 
 ナウシカには、「腐海」という生物や人間達が暮らしていけない有毒な世界が存在する。その世界は、実は、7日間の前の世界の終末戦争の結果生じたものであった。しかし、その「腐海」には、重要な機能があった。それが、この世界を汚染から浄化する重大な機能であった。

 これらのアニメに描かれた神話・伝説は、主人公達が所属する集団の創生に関わっていると同時に生活している宇宙・世界の構造にも密接な関わりを持っている。この特色は、古事記に描かれている世界観とも共通するものである。

 近世国学者達は、ただ単に神話の解釈だけではなくて、その世界を元に新たなテクスト・世界の創造を行っている。平田篤胤も、その著書『霊の真柱』で、私たちの宇宙・世界の図示を行っており、やはり、神話・創生譚との関わりを示そうとしている。

 この書物では、時代毎の神話をめぐる「読み替え」の変遷を詳述しており、特に第3章・第4章に書かれている内容は非常に面白い。

 巻末の参考文献をみると、論文「中世日本紀の輪郭」(伊藤正義,1972,『文学』岩波書店)が挙げられている。この論文は、佛教大学の黒田先生も推薦されておられ、私も図書館での複写を取り、なんども読み返したが、「はげしい衝撃を受けたのは、それは今でも鮮やかに思い出せる」と斎藤先生は、跋文で記しておられる。

 戦後の日本神話の見方は、これらの論文が発表された1970年代を契機に大きな変化を遂げた。1970年代は、戦後の日本社会の復興、発展期から安定記に入ろうとする時代でもあり、同時に、ベトナム戦争が激しくなり、世界の「不透明感」が強まった時代であった。こうした時代や社会のパラダイムの影響を受けて、神話の「読み方」も変わっていったのである。

 それは、古代、平安期、中世、近世、近代と日本神話の見方、読み方が変化したいったのと同じ現象であり、結局、国民・民族の「神話観」は、パラダイムの変化と密接な関わりを持っていることに他ならないのだと思う。

意外な落とし穴2009/05/04 21:15

 仏教芸術コースでお世話になった安藤佳香先生の全著書、全論文を読破したと思っていたら、意外な落とし穴が見つかった。

 それが、京都造形芸術大学比較芸術学研究センターが刊行している『Aube』の02号07年8月発行に収載された論文で「装飾と思想の関わり」、『「宝相華」という美しい名の唐草について』の2点であり、早速、AMAZONに昨日発注、今日の夕方には配達されて来た。

 先生の論文目録については、インターネットのデータベース等を使ったが、これらには、最近発行された雑誌論文等が反映されていないので、十分注意する必要がある。(国立国会図書館の作成している雑誌表題目録オンラインデータベースにも、08年の時点では収載されていなかった。)

 この雑誌には、井上正先生の「仏教芸術の中に民族思想を読み取る」も収載されている。こちらの論文は、私が佛大の仏教芸術コースで学んできたことが、完結かつ完全な文章で見事にまとめられている。これから仏教芸術を学ぼうとする人達には、是非、お奨めしたい論文である。この中で、「霊木化現仏」に加えて「霊石化現仏」が触れられている。これは、ユニークで初めてみる観点である。

 朝鮮半島の慶州にある石刻仏が例に挙げられている。樹木と同様に岩石や崖にも自然の霊力が宿るという信仰が仏像彫刻に結びついたものである。この慶州の線刻仏に非常に似た事例が、私の近所の能勢剣尾山の大日如来磨崖仏にみられる。岩の形をうまく活かして大日如来造が彫られているし、この大日如来を中心に胎蔵界の宇宙の配置が自然石等を利用した山岳仏教遺跡と融合しているのである。この地域には、百済から渡来した日羅上人の伝承があり、朝鮮半島の霊石化現仏の信仰が伝播したのではないだろうか。

 安藤先生の2点の論文は、これまでの講義や講演、著書、特に『佛教荘厳の研究 グプタ朝唐草の東伝』に述べられている内容を完結にまとめたものであったが、長い著作を読むよりも、この方が判りやすい点もある。また、この雑誌の価格は、1,800円なので、数万円する佛教荘厳の研究を買えなくても、井上正先生や安藤先生の考え方の概略を知ることができる。

 この本が届いた時、母親にみせたら非常に興味深そうに読んでいた。若いときに、私たち親子の生活を支える為に、内職で、泉南の毛布屋さん向けに、毛布の図案をアルバイトで描いていた。宝相華文等も良く知っており、「こうした模様の由来について初めて知ることが出来た」と話していた。

 私たちと「かざる」という行為、そして、文様は、密接な関わりを持ち、それぞれの民族や地域の生活文化のエッセンスが表出されているのではないだろうか。