国宝附「勘注系図」にみられる仮名文字の裏書を発見2009/05/30 01:18

 先日訪問した丹後一ノ宮の籠(この)神社宮司海部氏が伝える「海部氏系図」は、「勘注系図」と共に、国宝に指定されている。「海部氏系図」は、その複製をみた限りでは、書写年代は相当古いものであると考える。
 この「海部氏系図」の信憑性を保証しているのが、「勘注系図」であり、それにより、この系図の作者と成立年代が推定出来るとされている。
 この「勘注系図」についてどの様に考えるべきであるのか、宝賀寿男氏は、下記のWEBで説明されている。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/amabe/amabe%20k1.htm
 一番問題なのは、勘注系図の成立年代である。この勘注系図の書写年代は、かなり後世になるということは、
 「書写の時期は江戸幕府三代将軍家光の寛永年中であって、筆者は海部勝千代(第七〇代永基のこと)とのことである。」と同WEBにあり、私も、後の時代であると思う。

 但し、本文の書体のみで近世期の写本であると断ずることはかなり危険を伴う。この様な貴重な系図、資料の書写作業は、臨模本、あるいは、敷き写しという作業でおこなわれた場合には、現代のコピーに匹敵する程の精緻さを有する可能性があるからである。
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 私は、今回、この勘注系図について、実際に丹後資料館で拝見することができて、感謝しているが、一番の発見は、料紙の裏書きの記述に非常に興味ある問題点を発見したからである。

 この勘注系図は、本来伝えられるべきものではなくて、下書きの様な物であった可能性がある。

 その理由として、裏書き記述を一部であるが判読してみると、何か説話か物語本文の仮名書き文字を発見したからである。その書風は、中世後期から近世初期にかけてと推定されるが、平安朝の書風を真似たかなり教養のある書き手である可能性がある。もっと、詳しく、全文を解読する機会が与えられれば、現存する勘注の成立年代や書写に纏わる事情を推定出来るかも知れない。勘注系図のなかに見える「丹後風土記残欠」いわゆる「残欠風土記」についても何か手がかりになることが判るかも知れない。

 勘注を偽書とする説があるが、私は、どうかと思う。もし偽書として制作された資料ならば、むしろもっと正式な料紙を用い、清書の形で残っている筈だが、いくら紙が貴重な時代であるといっても、この様な反古紙の裏書きとしての形で残る筈はない。

 やはり、それなりに由来のある資料であると考えるべきではないのだろうか。和本学、書誌学的な精査が今一度、行われることが期待されるのである。

聞き比べ2009/05/30 11:07

 昨日は、夜遅くまでかかってフルトヴェングラーウィーンフィルのベートーヴェン交響曲第1番ハ長調の盤オコシの作業をする。夜中に完成した。

 翌日、聴いていると、同交響曲第3番に比べて1番の方が音質が良好というか、高域のレンジが伸びているような感じするが、低域がやや物足りない。第3番のLPは何度も聞いているので、やはり盤にダメージが生じており、若干、ノイズが多い目(大きなノイズはないが)となっているのも少し気になる。

 それでも、良い音で復刻出来たので悦に入って暫く鑑賞。

 その後、思いついて、最初に東芝EMIが発売した交響曲第3番のCD(写真右)を比較して聴いてみる。音質は、中央にこじんまりとまとまり、上品である。それなりの気品もあり美しいが、高音にカスレがみられ、全般に音像・スケールが小さめになりがちで、これでは、聴いていても楽しくない。

 次ぎにブライトクランクでステレオ化されたもの(写真左)を聴く。音は、自宅のやく2メーター離れて設置されたフロアスピーカー一杯に広がって、凄い迫力。あんまりCDやレコードを聴いたことがないひとは、オリジナルステレオかと思うかもしれない。

 しかし、何か違和感を感じる。特にヴァイオリンの超高音域は、右側から、中高音域は左側、コントラバスの低音は右から聞こえるが、弦が擦れる高音の音は、左側と楽器の種類と音の定位がバラバラでしかもエネルギーバランスが右に寄りすぎているので、不自然な感じがある。しかし、この方が、前者のオリジナルモノラルCDよりもずっと聞きやすい。

 最後に再び私の盤オコシCDを聴くが、ブライトクランク程、音像は広がらないが、リスニングポイントからみて、50㎝位の範囲に音像が展開し、レンジも良好。これでサーフェースノイズがなければ良いと思うが、これを除去すると音に艶がなくなるので、このままの方が良いことを何度かの経験で知っている。

 オリジナルのLP(全集版)と比較すると、オリジナルの方がややマッタリとした感じがあって良いが緊張感に欠く。デジタル化するとややマッタリした感じがやや後退し、レンジ感が出てくる。また、波形処理を加えているので、レゾナンス等の感じも少し変わってしまった。

 LPの方が聴いていると毎回新しい発見があるが、何度も聞いていると痛んでくるので、このオリジナル盤オコシCDを日頃は聴くことにする。

社会学のスクーリングで、四角く机を並べる理由2009/05/30 23:25

 明日から佛大の春季スクーリングが開始となる。インフルエンザによる休校が解除されて本当に良かったと思う。
 当然、私は関係ないが、それでも、もし、「明日スクーリングだったらどうしよう、痛風だしな。」といったトラウマというか被害妄想に駆られることもある。
 スクーリングは、後から想い出せば楽しかったが、実際に授業を受けている間は大変だった。

 仏教芸術コースは、講義形式が多かったので、それほどではないが、応用社会学科の時は大変だった。
 机をこんな風に四角く配置しなおすだけで、疲れたことを覚えている。
http://www.bunet.jp/topic/news/020914/020914_sb20.html

 写真の先生は、富田先生で、佛大を辞められて関大におられる。応用社会での富田先生の授業は比較的楽だった。色々な映画をみせてもらって、それについて意見を述べ合ったり、そんな感じの授業も多かったと思う。

 社会学のスクーリングで、四角く机を並べる理由は今になって判った。コミュニケーションが第1歩であり、話し合えること、これが社会学の方法論の第1歩なのだ。
 実際に討論になると意見が言えなくて、困った。後になればいくらでも出てくるのに自分の発言の順番になると駄目になってしまう。
 佛大のスクーリングで一番苦労したのは、この点でディスカッションという習慣が大昔に卒業した大学はともかく、現在の仕事や職場でもあまりなかったから尚更だ。
 自分の意見を説得力を持って述べることは、非常に難しい。しかし、これは、実は、論文を書くためにも重要なことで、避けては通れない道なのだと思う。
 スクーリングで一番大事なことは、単に、知識を習得するということではない。教師や級友とのコミュニケーションを通じて、研究方法や自分の考えのまとめ方を体験的に会得する絶好の機会だと思う。
 明日から、仏教芸術コースの方もスクーリングだと思う。後輩の皆様が、スクーリングに出席して、何か1つでも収穫があれば良いと思っている。