日本の通信教育発祥の地松阪2007/09/29 09:18

宣長の旧宅内部、左は、書斎に登る階段、右上は屋敷のたたずまい、右下はもともと宣長の屋敷があった魚屋町、古い町並みが保存されている。
 9月22~23日の佛教大学の東海ブロックの学習会に出席、国文学(中世文学)の黒田彰教授の講義を受ける事が出来た。
 黒田先生が、文献学の講義をされると言う。特に何時も珍しい敦煌文書や漢籍、中世文学の資料を発掘されている先生による文献学の講義の値打ちは図り知れないと思い、はるばる松阪まで出かけた。
 松阪は、日本の通信教育の発祥の地で、本居宣長が賀茂真渕と生涯に1度だけまみえた後は、手紙のやり取りで古典文学の基礎的な知識を身につけ、やがて国学大成に至った。
 翌日は午前中で解散なので、午後からは、松阪城跡にある松阪公園に移築されている本居宣長旧宅を訪問した。
 鈴野屋で有名な宣長の家は、もともと魚屋町にあったのだけれども、明治40年代にこの場所に移築された。
 屋敷は、城跡の涼しい風が吹く松阪神社の鎮守の森の近くに佇んでいる。
 狭い階段が土間から続いており、その上が宣長が国文学の研究を行ったところ。
 建物の印象としては、非常に簡素で常に清潔な空気と光が建物の中に流れる様にされている。
 雑念から離れた静謐さの中に、想像力が十分に育まれそうな空間が確保されている。
 もともとこの建物があった魚屋町の屋敷跡も訪ねたが、やはり、そこも松阪らしい質素で清潔な町並みの中にあり、この建物に相応しい場所であった。
 屋敷見学の後、記念館を訪問。宣長の国文学関係の手沢本、自筆本、掛け軸、画賛等が展示されていたが、その中で、特に注目されたのは、ひとかたまりの手紙の束であった。
 それは、宣長と真渕の間でやり取りされた手紙であり、万葉集の解釈について、几帳面な宣長の質問に真渕が独自の筆跡に答えている内容。
 特に万葉集の場合は、同じ語彙でも使われている歌、相聞歌、叙景歌によって、語義が異なっている事に注目している等、展示品の一部でしかうかがう事が出来なかったが、貴重な資料であり、200年前の通信教育の有様を実際に目で確かめる事が出来た。
 この他、手沢本の湖月抄、紫文要領等の源氏物語関係の研究の自筆稿を見る事が出来たのも貴重な体験であった。宣長の筆跡は読みやすいので、翻字しなくてもある程度は理解する事が出来る。
 「大和魂」の思想の根拠についてかかれた『直霊』の草稿を見れば、それは、単純な唐心(からごころ)の批判ではなく、あらゆる漢籍を十分に研究した上で、より上位の思想段階における批判である事もこれらの文献を見れば理解する事が出来る。
 また、宣長の神道的な世界観を示す図も面白かった。平田篤胤も同様に「霊の真柱」で世界観を図示しているが、宣長の世界は、より多極的であり、横広がりの要素もあるが、篤胤の場合は、ある意味対立概念・西洋的で、「澄んだ空間」と「濁った重い空間」が上下に両極的に描かれているという事を見れば、国学の世界観が江戸時代の終わりにどの様に展開していったのかを知る事も出来る。
 わずか数時間の参観であったが、大きなインスピレーションを得る事が出来た。

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