俳句単体でも俳句として成り立ち、下の新体詩と結合して、1つの詩的有機体を為す様2011/02/11 09:40

 今日は、実家で雪の朝
 今も雪は積もっている。


 白雪に     源氏の里は
 ピンクの梅が  突然に
 隠れてる    雪の山里

 山里は     ちらほら咲いて
 雪に梅林    どんどん薄れて    
 霞ゐて     遠くのお山も薄れたよ

 薫り高く    美味しさは
 甘い甘い    ピンク色の
 梅の花     シャーベットみたいに

 漱石句集を昨日から読んでいて、俳体詩にかぶれてしまった。稔典先生の漱石俳句集の最後に漱石が考案したと言われる俳体詩が書かれている。

 どうやら和漢朗詠の趣きに近く、俳句と新体詩が結合したようだ。
 つまり、俳句単体でも俳句として成り立ち、下の新体詩と結合して、1つの詩的有機体を為す様に作句していく。

 漱石句集(岩波文庫 坪内稔典編 213頁)

 源兵衛が    練馬村から
 大根を     馬の背につけ
 お歳暮に    もて来てくれた

 源兵衛が    手拭くでもて 
 股ひきの    埃をはたき
 台どこに    腰をおろしてる

といった具合にあるのを真似してみた。クロスワードパズルみたいな面白さで新しい境地を示している。でも漱石の真似をする人は、自分位なものかな。

「極楽往生」の話をしているが、母親と同様にスマナサーラ師もそんなものがないという2011/02/11 18:16

 今日、暇つぶしにこれを読んでしまったが、まぁ、面白かった。

 スマナサーラ師のお話よりも寂聴さんのお話の方が、面白かった。残りのゲストは、山折哲雄さん以外は、つまらない。

 この本、学研が出しているが、僕が、科学と学習を購読していた1970年代前半までは、まともな出版社であったが、今は、「とんでも本」のメッカである。

 宗教を否定する共産党系の清風堂さん等は、学研の本は、殆ど置いていない。

 しかし、1つの文化的トレンドとしてみれば面白い。日本文化というのは、グローバルに評価されているのは、アンダーグラウンドやアニメ、ゲーム等で、真面目な宗教や文学等は、世界の動きの中でマイナーな存在である。

 仏教に関しても、世界的な視点でみれば、日本仏教というのは、オウムの信者が語っていた様に「風景」、「観光名所」、「文化遺産」でしかない。

 今、世界の新興宗教のトレンドは、やはりカルトである。仏教系カルトもあるが、カルトと言わなくても、日本語文化圏以外で信仰されているのは、スマナサーラの「テーラワーダ」か、ダライラマのチベット密教である。

 テーラワーダが初期仏教・仏教の始原の姿を示しているというのは、少しおかしいと思うが、日本の既存仏教が、大乗に対する小乗と蔑んできた一方で、本来のブッダの教えとは、かなりかけ離れてしまっている点をみれば、この本を読んでみる価値がある。

 「仏教は宗教ではない。」という宮崎哲弥さんの考え方は、佛大の松田先生と共通しているが、実際のテーラワーダは、チベット系カルトと同様に瞑想があったりして、多分に儀式的である。結局、儀式性が強い集団活動となれば、政治結社から宗教結社、カルトしかないので、やはり、1つの宗教の一派ではないかと覚めた目でみてしまう。

 テーラワーダによれば、如来も菩薩も存在しない。当然、仏像とか仏教芸術等もない。
 じゃあ、あの阿弥陀如来をみて感じられるヒーリング・癒し効果はなんなんだろう。

 自己存在の意識的な否定というのが解脱につながるというが、そうした意識を失ってしまえば、解脱とかそういったことも意味をなさなくなってしまうのではないだろうか。
 テーラワーダの動きについて、浄土系の既存仏教の人が反論も書いているが、結局、どれが正しく、どれが駄目ということはない。

 母親に実家に帰る度に「極楽往生」の話をしているが、母親と同様にスマナサーラ師もそんなものがないという。「出来れば、僕は、阿弥陀如来の側には行きたくないですね。」と述べておられる。
 まぁ、合理的に突き詰めて自己存在を否定することで、色々な苦しみや不安が取り除けるのはよいと思うが、それはなかなか難しいと思う。


 私、個人の考えとしては、ブッダについては、人間ブッダとして、その生き方や価値観を客観的にみていくことが大事だと思うが、2千年以上も経過した人について客観的に評価することは難しいと思う。