今日は、一日中、仏教関連の本を読んでいた。2009/09/23 22:40

 最近は、夕焼けが綺麗だ。
 
 もう夏から秋に季節が移り変わっている様な気がする。今日は、一日中、仏教関連の本を読んでいた。

 角川文庫の「仏教の思想シリーズ」を全巻を揃えているが、少しも読んでいないので、第1巻の「知恵と慈悲(ブッダ)」から読み始める。

 読んでみて驚いた。著者の増谷文雄氏は、ほとんどブッダの思想とか生涯に触れておらず、四聖諦については一応は触れているが、「ブッダ最後の旅」とか、三法印とか、つまり、ブッダを囲む初期の教団の様子等については一切触れられていない。

 その替わり、ソクラテスとかキリスト教神学の比較とかそういったもの「比較宗教・思想論」が、全体の半分位が占めており、こういったものはどうでも良いのに、西洋哲学とブッダの思想を比較するというのもケッタイな話。

 著者は、ブッダの教えは、宗教ではなくて、「思想」であったといいたいようだ。まぁ、そういった考え方もあるが、キリストにしろ、ソクラテスにしろ聖人らしい死とか復活とかが描かれているが、ブッダの生涯については、人間の死が写実的に描かれている点に注目している。

 しかし、その違いは、ブッダの思想そのものではなくて、ブッダを囲むサンガのコンセプト、大般涅槃経を書いた人達の観点によるものと思う。

 最近、特に、ブッダの伝記等を読んでいて、感じられるのは、「本当にブッダがこの様に言明したらしい。」という部分と、大乗経典に描かれた「如是我聞に始まる如来=ブッタ像」とまぜこぜにしており、非科学的である。

 また、「思想史」として考えても、そもそも「仏性」に対する考え方が、初期仏典と大乗仏典とは根本的に異なるで、意味はほとんどない。

 これらを出来るだけ科学的に考証して分離・分類して新しいブッタ像を描いた様な研究書が現れて欲しい。

 仏教大学の「ブッダの教え」のテキストも、「業」(カルマ)の説明以降、輪廻転生以降の解釈がいきなり、大乗仏教の思想や理想に置き換えられてしまっている辺りが、こちらも偏向している。

 佛大では、「ブッダの教え」→「法然上人のご生涯と思想」へと履修をつなげていくカリキュラムなので、大乗仏教的な指向を持つのはしかたがない。

 つまるところ、角川文庫、佛大テキストの二者ともにとても、学術(科学)的ではないと思う。

 角川文庫の場合は、特に主観的な妄想にとらわれて文章を書かれる梅原猛氏が監修しているので、バイアスがかかるのは仕方がないが、西洋思想と東洋思想を並列的に並べて比較する方法論は、21世紀の今日、もはや時代遅れである。どうして、こういった「両極的」な文明・宗教の比較論が出てきやすかったと言えば、東西冷戦という歴史的な背景があったからに他ならない。

 「21世紀のブッダ」、「21世紀の法然上人」のイメージを作っていくのは、これからのエライ学者先生達の役割だが、未だに時代遅れの考え方が蔓延っているので、どうしようもない。

 科学的な研究、それは、文献学と解析学に拠る以外にない。

 ブッダの生涯について出来るだけ、近い時代に描かれた歴史的資料としては、サーンチーの仏塔のレリーフがある。これを図像解析を交えながら、正確にみていくという思想に偏らない「素朴な努力」を行うことで、案外、これまでに無い実像が見えてくるかも。

 仏教芸術コースは、真面目に仏教を学ぼうとしている人が行くところではないと、ある教授先生が言われたことが未だに忘れられないが、その「宗教思想」の根拠自体が曖昧なので、むしろブッダに近い時代に残された図像を分析してみていくことの方が、「思想の真相」に迫ることができるのではないだらうか。

 佛大の松田先生は、「ブッダの教え」のスクーリングでは、この様な偏向したテキストを使用せず、ブッダが亡くなって300~500年までに成立したとされる初期の文献資料や、スリランカで今も生きている釈迦本来の教えを伝えているとみられる教団の日常生活を描いたビデオや、部派仏教の考え方、法句経等を参照しながら、出来るだけ、正確にブッダ像を描こうとしていたことも印象に残っている。

 今日も、こうして無為な1日が過ぎていこうとしている。