「やはり出ましたGF1用オプションファインダー」 ― 2009/09/24 22:48
前回のブログ記事で、GF1にファインダーがついていないのが不安、是非、オプションファインダーで撮影出来る様にして欲しいと書いた。
「電子ファイダー(外部取り付け)をオプション化してよ。」
http://fry.asablo.jp/blog/2009/09/02/4559236
今日、ヨドバシ梅田で、GF1の上部に何やらファインダーらしきものが乗っているのを発見。最初は、他のメーカーのカメラかと思ったが、なんと、「GF1用オプションファイダー」である。
http://panasonic.jp/dc/gf1/lens_accessory.html
画素数は、20.2万ドット相当で、角度調節可能。1.04倍の等倍で視度調整可能。乱視+老眼の私は、LCDをモニターしながらの撮影は苦手、それが、ハイアングルからファンダーを除いて撮影できるなんて、価格はヨドバシ店頭価格で1万9800円だった。カメラボデーが10万円位、合計12万円でフリーアングルのデジタル1眼が手に入る!
これでオリンパスの競合商品を完全に抜いたと思う。
こうなると、G1はもはや不要。
動画機能、フリーアングルのファインダー機能は、通常撮影はおろか、天体、野鳥撮影にも威力を発揮。これで不満な点はなくなった。
この間、オリンパスの競合商品をインプレスウォッチビデオという番組で特集。
http://video.watch.impress.co.jp/docs/stapa/20090915_315493.html
その中で、みのり先生が、「エッこれってファインダーないんですか?」とがっかりするシーンがあった。僕も同じ様にがっかりした。
外部接続ファインダーのメリットは、不要な時に外せるというだけでなくて、筐体に顔の肌が密着することを防いでくれるので、ボデーが皮脂で汚れるのを防いでくれる。
また、ライカ等のクラシックカメラのレンズを昔のレンジファインダーカメラの感覚で使えるなんて本当に凄いと思う。
素晴らしい。是非、手に入れたいと思うが、もうお金ありません。
法華経、維摩経、勝鬘経について、アニメーション画像が面白かった。 ― 2009/09/24 23:05
昨日は、2冊の仏教理論についての本を読んだ後にNHKハイビジョン特集の法隆寺の番組をみる。
結局、合計10時間以上は、仏教、仏典の世界に埋没していたことになる。
録画していたのをみたが、見終わったら1時位になっていた。法華経、維摩経、勝鬘経について、アニメーション画像が面白かった。
経典がアニメ化されて、NHK番組で放映されるなんて、史上初の快挙だと思う。勝鬘経については、先日の京都国立博物館のシルクロードの経典の展示でもみられ、その内容が面白いと思ったが、アニメーションは、その面白さを見事に表現していた。
法隆寺の代表的な仏教美術品が全て網羅的に紹介され、聖徳太子や橘夫人等についても解説されて、非常に内容が詳細かつ充実していた。
安藤先生の蓮華文の講義でも取りあげられた伝橘夫人厨子及び阿弥陀三尊像も取りあげられ、私も写真でしかみたことがなかったが、実際の大きさが案外に小さいこと、光明皇后によって改作されていたこと等知らない事実も多かった。
法隆寺五重塔については、使用されている部材が檜材についてや、古代の鉄釘の成分が非常に純度が高い点、あるいは、昭和17年から始まった解体修理作業のフィルム等、今回、初めて公開された画像も含まれ、大変貴重な映像資料であったと思う。
聖徳太子については、これまでいろいろと書物や講義で聴いてきたが、その中で、飛鳥時代の在家仏教のあり方という観点での論じ方も新鮮で番組企画の優秀さが感じられた。
結局、合計10時間以上は、仏教、仏典の世界に埋没していたことになる。
録画していたのをみたが、見終わったら1時位になっていた。法華経、維摩経、勝鬘経について、アニメーション画像が面白かった。
経典がアニメ化されて、NHK番組で放映されるなんて、史上初の快挙だと思う。勝鬘経については、先日の京都国立博物館のシルクロードの経典の展示でもみられ、その内容が面白いと思ったが、アニメーションは、その面白さを見事に表現していた。
法隆寺の代表的な仏教美術品が全て網羅的に紹介され、聖徳太子や橘夫人等についても解説されて、非常に内容が詳細かつ充実していた。
安藤先生の蓮華文の講義でも取りあげられた伝橘夫人厨子及び阿弥陀三尊像も取りあげられ、私も写真でしかみたことがなかったが、実際の大きさが案外に小さいこと、光明皇后によって改作されていたこと等知らない事実も多かった。
法隆寺五重塔については、使用されている部材が檜材についてや、古代の鉄釘の成分が非常に純度が高い点、あるいは、昭和17年から始まった解体修理作業のフィルム等、今回、初めて公開された画像も含まれ、大変貴重な映像資料であったと思う。
聖徳太子については、これまでいろいろと書物や講義で聴いてきたが、その中で、飛鳥時代の在家仏教のあり方という観点での論じ方も新鮮で番組企画の優秀さが感じられた。
釈迦の悟りは、もともと自明の真理であったのだ ― 2009/09/24 23:39
「ブッダの教え~その後」
佛教大学生ならば、誰もが受講する「ブッダの教え」であるが、学生の全てが、みんな理解しているのだろうか。
先生の説明を鵜呑みにして理解したと思っているだけの人が多いと思う。私等、未だに、四聖諦の内、苦諦と集諦は、おぼろげながら「理解」しているつもりだが、「滅諦」、「道諦」については、理解が出来ないままだ。
「ブッダの教え」も「法然上人の生涯と思想」、「仏教学概論」の全ての仏教科目の成績評価が低かったが、理解していないものを理解出来た様に答案に書ける程、私は器用ではない。
釈迦が説く集諦というのは、結局のところ、諸法無我、つまり、アートマン(我)は、存在せず、輪廻しないことを述べている。
全ての現象は、発生から止滅までの過程が直線的、連続的、不可塑的に進行していく。輪廻はしないが、やはり業を産み、苦の原因となる。
滅諦は、原因からシーケンシャルに運動していく現象の動きを絶つことで、苦しみを絶つことが出来て解脱に至ることが出来ると釈迦は述べていると私はなりに理解している。
恐らく間違いだと思うが。
教科書の説明では、五蘊から生じる煩悩が渇愛につながっていき、人々を苦しみに導く。渇愛をさける為には、中道の生き方以外にないと、そうして八正道の生き方を目指すことで、苦しみから逃れることが出来るという。
しかし、どうだろうか。
岩波文庫の『ブッダ最後の旅』や、瀬戸内寂聴さんの『釈迦』等を読んでも、死ぬ間際まで、渇愛と肉体的な苦しみに喘ぐ釈迦の姿が描かれている。
アーナンダの視点でそれらの光景は、描かれるが、実際に釈迦の最後は、現在、どこでもみられる80歳前後のご老人の臨終のありさまであり、なんら、正覚者としての威厳に満ちたものではない。
聖書マタイ伝にはイエスのゴルゴタの丘への歩みの様子が描かれているが、「本当に聖人ならば、奇跡を起こしてみよ。乞食の王様よ。」と兵士に嘲られ、鞭打たれる様子が描かれる。
彼も生身の人間の苦しみを露呈するが、これは、キリストの原罪と贖罪の象徴としての姿を描いている訳で、教義に即し必然性がある。
しかし、ブッダの苦しみは、結局、正道を歩んでも肉体の苦しみから逃れられず、苦しみを我慢している老人の様子そのものである。
老人特有の消化器不全から来る腸の炎症で腸閉塞の発作を起こし、一応は軽快するが、やがて患部が化膿し、下血が起きて、それによってショック死するという過程が、実に写実的に描かれている。
鍛冶屋のチュンダーには、たしかに釈迦の言う通り、なんらの罪もない。病気の原因と理由は、ブッダじしんにある。
だから、納得して諦めれば、苦しみもさるのだ。死の苦しみと恐怖から逃れる為に、禅定に入る。
しかし、この禅定という修行自体、ブッダが、その効果を否定したことではなかっただろうか。そこには、1人の思想家の孤独な死の姿が描かれている。
松田先生が見せてくれたスリランカの釈迦の時代の仏教のあり方を忠実に伝えている村落で、臨終者に立ち合う僧が出てくるが、「人が生きて、死ぬ事は、当然であるので、何一つ恐れるものはない。安心して逝きなさい。」と説教するが、これで人間が死の苦しみから救われるとは私には思えない。
当然、ここには阿弥陀の来迎等は存在しない。諦めて死を受け入れることが救いなのだと言う。
---------------------------------------------------------
大乗仏教的な観点からみれば、ブッダの涅槃の姿さえもが、1つの現象に過ぎず、そもそも「空」である。覚者、如来としてのブッダは既に別のところにいる。
その真理は、全宇宙或いは、宇宙を越えた真理自体を支配し、あらゆる時空には、仏性が示した現象としてのブッダが何人もおられ、同じ様に衆生が救済されている。
釈迦の悟りは、もともと自明の真理であったのだ。
この場合は、人のカタチをしたブッダが人を救うのではなくて、如来の真理に包含・摂取されることにより、人は苦しみから救われるのであると、「究極の救済」が説かれているのだろう。
しかし、これも私には信じることは出来ない。
何故ならば、その真理は、完全に私たちの感覚や認識を越えているので、確かめようがないからである。
「苦しみから逃れられたと自覚出来ない救いのあり方」言い換えれば、「極楽往生を遂げても、そのことが、浄土では、既に自覚されない救いのあり方」をあなたは信じることが出来るだろうか。
佛教大学生ならば、誰もが受講する「ブッダの教え」であるが、学生の全てが、みんな理解しているのだろうか。
先生の説明を鵜呑みにして理解したと思っているだけの人が多いと思う。私等、未だに、四聖諦の内、苦諦と集諦は、おぼろげながら「理解」しているつもりだが、「滅諦」、「道諦」については、理解が出来ないままだ。
「ブッダの教え」も「法然上人の生涯と思想」、「仏教学概論」の全ての仏教科目の成績評価が低かったが、理解していないものを理解出来た様に答案に書ける程、私は器用ではない。
釈迦が説く集諦というのは、結局のところ、諸法無我、つまり、アートマン(我)は、存在せず、輪廻しないことを述べている。
全ての現象は、発生から止滅までの過程が直線的、連続的、不可塑的に進行していく。輪廻はしないが、やはり業を産み、苦の原因となる。
滅諦は、原因からシーケンシャルに運動していく現象の動きを絶つことで、苦しみを絶つことが出来て解脱に至ることが出来ると釈迦は述べていると私はなりに理解している。
恐らく間違いだと思うが。
教科書の説明では、五蘊から生じる煩悩が渇愛につながっていき、人々を苦しみに導く。渇愛をさける為には、中道の生き方以外にないと、そうして八正道の生き方を目指すことで、苦しみから逃れることが出来るという。
しかし、どうだろうか。
岩波文庫の『ブッダ最後の旅』や、瀬戸内寂聴さんの『釈迦』等を読んでも、死ぬ間際まで、渇愛と肉体的な苦しみに喘ぐ釈迦の姿が描かれている。
アーナンダの視点でそれらの光景は、描かれるが、実際に釈迦の最後は、現在、どこでもみられる80歳前後のご老人の臨終のありさまであり、なんら、正覚者としての威厳に満ちたものではない。
聖書マタイ伝にはイエスのゴルゴタの丘への歩みの様子が描かれているが、「本当に聖人ならば、奇跡を起こしてみよ。乞食の王様よ。」と兵士に嘲られ、鞭打たれる様子が描かれる。
彼も生身の人間の苦しみを露呈するが、これは、キリストの原罪と贖罪の象徴としての姿を描いている訳で、教義に即し必然性がある。
しかし、ブッダの苦しみは、結局、正道を歩んでも肉体の苦しみから逃れられず、苦しみを我慢している老人の様子そのものである。
老人特有の消化器不全から来る腸の炎症で腸閉塞の発作を起こし、一応は軽快するが、やがて患部が化膿し、下血が起きて、それによってショック死するという過程が、実に写実的に描かれている。
鍛冶屋のチュンダーには、たしかに釈迦の言う通り、なんらの罪もない。病気の原因と理由は、ブッダじしんにある。
だから、納得して諦めれば、苦しみもさるのだ。死の苦しみと恐怖から逃れる為に、禅定に入る。
しかし、この禅定という修行自体、ブッダが、その効果を否定したことではなかっただろうか。そこには、1人の思想家の孤独な死の姿が描かれている。
松田先生が見せてくれたスリランカの釈迦の時代の仏教のあり方を忠実に伝えている村落で、臨終者に立ち合う僧が出てくるが、「人が生きて、死ぬ事は、当然であるので、何一つ恐れるものはない。安心して逝きなさい。」と説教するが、これで人間が死の苦しみから救われるとは私には思えない。
当然、ここには阿弥陀の来迎等は存在しない。諦めて死を受け入れることが救いなのだと言う。
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大乗仏教的な観点からみれば、ブッダの涅槃の姿さえもが、1つの現象に過ぎず、そもそも「空」である。覚者、如来としてのブッダは既に別のところにいる。
その真理は、全宇宙或いは、宇宙を越えた真理自体を支配し、あらゆる時空には、仏性が示した現象としてのブッダが何人もおられ、同じ様に衆生が救済されている。
釈迦の悟りは、もともと自明の真理であったのだ。
この場合は、人のカタチをしたブッダが人を救うのではなくて、如来の真理に包含・摂取されることにより、人は苦しみから救われるのであると、「究極の救済」が説かれているのだろう。
しかし、これも私には信じることは出来ない。
何故ならば、その真理は、完全に私たちの感覚や認識を越えているので、確かめようがないからである。
「苦しみから逃れられたと自覚出来ない救いのあり方」言い換えれば、「極楽往生を遂げても、そのことが、浄土では、既に自覚されない救いのあり方」をあなたは信じることが出来るだろうか。
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