結局、死生観(往生観)というのは、世界観に関わってくる2009/09/30 23:42

 「こころの時代 法然を語る6 現実を越える力」というNHK教育テレビをみた。

 講師は、広島大学院教授 町田宗鳳先生。お名前からして僧籍の方か。

 源信の往生要集の内、臨終行儀を例に、源信の時代の浄土教と法然の時代の浄土宗の死生観がどの様に変わったかという説明が面白かった。

 結局、死生観(往生観)というのは、世界観に関わってくることで、源信の世界観は、地獄と極楽との両極の考え方。だから、臨終の際の表情でも「これは来迎仏を迎えているお顔だ。」とか「これは、地獄をみて苦しんでいる顔だ。」とか両極の発想が出てくる。

 世の中をその様に両極でみるから、「恐怖」ということが生まれてくる。

 ここで先生は、イタリアルネサンスの思想家ダンテを引き合いに出された。ダンテは、神曲の中で、この世界と天国→煉獄→地獄と3つの世界に分けた。日本でも同様の考え方があり、死後49日間は、その中間の世界に存在してから往生する。往生を導く為には、様々な現世からの供養が必要になる。

 結局、煉獄というのも生者の世界と死者の世界との関わりで生まれたものであるということ。

 ところが、法然上人は、その様な世界観を持ってはいない。たしかに、現世と極楽浄土は、存在するが、地獄という考え方はない。誰もが、阿弥陀仏を信じて、念仏を声に出して唱えれば、極楽往生が適うという、実にシンプルな考え方である。

 この為、平安時代の貴族がした様な臨終の際に阿弥陀仏の元に伏して、五色の糸を阿弥陀仏の指と死者の手を結びつけて、往生を願うようなことをしなくても、自ずから極楽往生が可能という点がこれまでの信仰とは違うと唱えられた。

 しかし、念仏を唱えるということは、観念的な理解よりも、一層、実際の肉体的行為を行うことで、想像力を刺激し、極楽往生を願うイメージを持つことにつながるという。

 だから、大きな声で念仏を唱えることは、思想的・宗教的というよりも、肉体的なイメージを喚起することにもつながっていく訳だ。

 イメージを産み出す想像力は、意識的なものにつながるが、それは、精神的イメージによるものと物質的イメージによるものに分類されるという。

 物質的イメージというのは、なんらかの外的な刺激を受けることで新たなイメージを作り出すことである。

 その例として、先生は、旅行のお話をされた。

 法然上人の足跡を辿って先生は、その足跡を歩かれているが、黒谷を始めとして、上人がおられた土地は、みんな夕陽が良く当たる自然に恵まれたところであり、その様な自然との相互作用が、新しい往生観を産み出すことにつながったのだと考えられている。

 だから、現代の我々も、極楽往生を志すならば、理論的な理解よりも、そうした自然との連携の中で、人の持つ無意識の想像力を刺激しなければならない。そうした中で専修念仏を実践することが極楽往生への道ではないかと、先生独自の法然観、往生観を展開された。

 1時間位の番組だが、これまでにない法然上人のイメージを説かれていたので、結構、楽しんでみてしまった。

 これで全12回シリーズの前半が終わったということだが、この講座の存在を知ったのは、ジュンク堂で販売されているNHKのテキストをみてからで、裏には、やはり佛教大学の宣伝広告が全面に掲載されていて、「さすが佛大」と思った。