コーラン事件について考える2010/09/13 23:28

これって、宗教と信仰の問題だと思う。

宗教と信仰の間にはパラドックスが存在する。

①信仰の無い宗教
②宗教で無い信仰

この2点の矛盾が今回の事件の要因だ。

つまり、コーランという聖典は、信仰があるものにとっては、アイデンティティの象徴な様な存在だが、信仰がないものにとっては、全く意味の無い、単なる書籍に過ぎない。

イスラム教徒が報復に聖書を焼かないのは、キリスト教の中には、「信仰の無い宗教」的な側面があることを知っているからだ。

イスラム教徒がコーランを焼かれてあれ程、激昂するのは、イスラム教=コーラン=信仰だと考えるからだが、コーランを焼いたアメリカ人牧師が、信仰等はないに決まっているので、コーランは、その時点で、コーランでなくなっており、意味を成さなくなっているので、そんなに騒ぐ必要はないと思う。

宗教もグローバリズム、現代化の流れを避けて通れない。
もっと覚めた目で宗教・信仰をみる必要がある。

9/11テロがあったラウンドゼロの近隣にモスクを建てる行為は、たしかに信教の自由を保障している合衆国憲法では、合法的なことであるが、やはり、イスラムテロであれ程の善良なキリスト教徒、合衆国国民が犠牲になったことを、客観的に認識し、「公共の良俗・常識」に照らして、その様な場所にモスクを建てるべきでは無かった。

この点でオバマ大統領の考え方は間違っている。
やはり、常識ということが必要なのだと思う。
でも、信仰は、常識を否定するところから始まるという大きな矛盾を孕んでいるのである。

また、実際にそこでモスクを建てて信仰生活を送る権利があるとしても、地域社会との隔絶、拒否が起こるのは目に見えているので、合理的なこととは言えない。

こんな問題は、日本では起こりえない。

つまり、一般の日本人にとって、宗教は、単なる形式的な冠婚葬祭儀式に過ぎず、まさに①であるから。

これは、多種多様な宗派、外国文化の流入といった中で、日本人の良識・常識が社会的にその様な位置づけを行っているからである。

唯一、靖国神社参拝が例外というだけである。

動物は共食いをせず、人間は共食い(戦争)をする。
動物は、宗教を持たないが、人間は、宗教・信仰に惑わされる。

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