人間そのものがメディアである虚しさ2010/06/20 23:31

 今までの人生が偽物というか無駄であったという様な虚無感。

 常に透明な膜が顔に貼り付いて、それを通して呼吸をしている様な息苦しさ。

 今、ここに生きているという実感というのを一度も私は、感じたことがない。

 それは、佛教大学の応用社会学科に入るまで、ずっと感じていたことで、今の同様の虚しさを感じる。

 そういった状況の中で、富田英典先生(当時は、佛大、今は関大の教授)がスクーリングでみせてくれたビデオ、「トゥルーマン・ショー」、これが、この大学で、今となっては、最も衝撃を受け、未だに、気になっている作品。

 今日、実家の整理をしていると、このビデオが出てきたので、おうぶの家でずっとみていた。

 このビデオ、スクーリングでは、途中までしかみせていただけなかったが、それを映していた時の富田先生の何やら悲しげなお顔が忘れられない。僕は、あの先生、人間そのものがメディアである虚しさ(演技としての人生)を感じていたのだと思う。

 親子、夫婦、会社の上司と部下、医者と患者、あらゆるものが実は、メディアという虚構の共通認識によって規定された仮面・衣装を纏って演技をしているという考え方。
 
 トゥルーマン・ショーは、胎児の時から虚構のドラマの中の世界で演技をさせられた男を描いている。

 彼にとって、人間そのものが、演技だったという恐ろしさ。
 視聴者は、「彼は可哀想だ」と思うが、やがて自分自身もそうであると気がつく訳だ。

 このビデオ映画の虚構世界は、巨大な数十キロもある様なドームの中にあり、人工的に昼夜、天体の運行、雨風、天候、全てがコントルールされる。彼が生活する市街地の数千人か数万人かしらないが、そこで生活しているのもみんな役者。

それどころか、彼と結婚する女性も演技(つまり、セックスも子供を作るのも全て演技)。

ウソがばれたのは、結婚式の時の写真で彼女の指が密かに懺悔の形をしていたことを彼が発見した為。

恐ろしい虚構で、監督の目論みでは、そこで産まれる子供さえ、第2のトゥルーマン・ショーになる筈だった。何故ならば、ベビー用品のCMスポンサーを獲得したかったから。

様々な試みを行うが挫折する。

しかし、「アルカトラス島からの脱出」の映画と同じ手口を使って、脱出に成功して、「世界の果て」に辿り着いて、このドラマも終わるのだが、神であるプロデューサーが最後に語りかけるところで、「君は、私が作った世界の外では、生きていけないんだよ。君が棲んでいる世界の方が、外の世界に比べて、ずっといいんだ。僕は君の全てを知り尽くしているのだから、それが判る。」という台詞が面白い。

 僕らの人生というか生活とかそういったものは、全てメディア化されている。

 メディアは共通のイメージをあらゆる人と共有するので、ある意味凄く、安心というか一体感がある。

 トゥルーマンじしんもそうだし、彼のドラマをみている観客もそうだ。

 しかし、その安心感とか一体感を生んでいる世界そのものが、全て虚構のスクリーンなんだと思う。

 仏教の世界でも、そうで、まさしく「空」であり、そのスクリーン、それぞれが映し出したものを実体として認識しているのに過ぎない。

 「空」では、仏の教えさえも「空」である。
 人間の存在、個々の人間の人生など、実体などある筈はない。

 人生の勝者、敗者、或いは、住宅ローンの完済、それぞれの社会階層の中でのライフステージをクリアした達成感、それらは、全て、虚構のスクリーンに過ぎない。

 しかし、このビデオ作品では、1つだけ真実があることになっている。

 ドラマのプロデューザーに配偶された女性ではなくて、本当に愛した女性が登場する。これもプロデューサーに引き裂かれるので、一種の悲恋ドラマになっているが、ここの部分がこの作品では、一番甘いところ。

 また、本当に愛される女よりも、虚構の女の方が、表面的には、善良・清楚で、看護婦という聖職につき、家庭的にも魅力がある女性になっているのも、この映画の面白いところ。

 しかし、僕は、「愛」ほど虚しいものはないと思う。

 実際、仏教では、もっとも、否定的にみなされる考え方である。

 徹底的なニヒリズムだと思う。

 人生は、それぞれがその実体は「空」である「意識」の巨大な膜で、仏のみが知る縁起・因果に基づいて、ドラマの登場人物の様に演技をしているだけ。

 ドラマの監督は、トゥルーマンが、ヨットによって、脱出しようとした時、人工の大海に嵐を発生させて、主人公を殺そうとする。

 そう、人間は、来世の極楽往生による解脱は、この虚しさを逃れる道はないのだと思う。自らの力では、どうすることも出来ないのが、他力思想である。

アル中の幻想2010/06/08 23:11

アル中の幻想である。

菅さんになっても鳩山さんでも同じ。

実行力がないので、鳩山の方が、世の中が悪くなる速度が遅くなって良かったかも。

菅は、なんでも思い切って実行に移す方なので、間違うと取り返しがつかない方向に。

特に消費税が10%になったらどうやって暮らしていくのだろうか。輸出企業は景気が良いようだが、それも10社程度のごく一部の企業にアンケートした結果、天下のNHKは、あたかも、日本全体の企業が景気が良くなった様に報道している。

不思議なのは、「増税論議」が出てきてから急に、「景気が良くなりました」というニュースが流れ始めたことである。
これは、「報道操作」であり、国民は、これに気づくべきだ。

NHKの予算は、民主党の息がかかった議会で、承認されるので、こうして媚びる以外にはない。本当に「皆様からの聴視料」でなりたっているのであれば、生命保険と同じ様に、視聴者全員による評議会で承認を受けるべきだ。

NHKの予算を承認している国会議員さん達でも聴視料を払っていない人が大勢いるのだ。

この様に報道なんて、実は、ウソの固まりである。
記事はいくらでもねつ造できる。

コトバ次第で世の中は、表にも裏にもなるという怖さを知らない。高額の聴視料をとってウソの報道を聞かされてはたまらない。受信契約といっても、解除不可の契約なんてないから、法的には無効である。

とにかく、現在の行政システムでは、誰がやっても、いくらお金があっても赤字になる。

それは、行政活動自体が不採算事業なので、やれば、やる程、赤字が蓄積する仕組みである。
行政の仕組みそのものを根本から変えてしまう以外に対策はない。


そういったことが良く判っているあのナゴヤのオッサン。
そう、僕は、あの「減税ナゴヤ」の河村さんに総理になって欲しい。
http://takashi-kawamura.com/
でも、この人は、残念ながら民主党なんだ。

議員報酬をカット、議員年金を廃止するだけで、無駄な支出を抑えることが出来る。また、同時に金儲け目当てで実際には国民のこと等、何も考えていない国会議員連中が大部分なので、議員報酬を一般庶民並みにすれば、本当にやりたい奴だけが議員になれるので良い。

議会制民主主義さえも本当に必要かどうか考える時期に来ているのだ。

可哀想なのは、民・貧乏百姓ならぬサラリーマンである。

どんなにあがいても、今の世の中の景気を「回復」させることは無理である。庶民にとっては、高度経済成長期は、「幻の過去」となり、江戸時代以前の餓えと貧乏が待っている。

「景気回復」の「回復」とは元に戻るということだが、諸行無常なので、決して、元に戻ることは無く変化するだけだとお釈迦様も言っている。つまり、必然的な因果関係で、世の中はこうゆう風に変化しているので、それを元に戻すことは不可能である。

日本社会全体の縮小が進むなかで、いくらあがいても 無駄だし、ましてや、政治の財源を庶民からもっとも集めやすい消費税の形で収奪しようとするのも阿漕で無駄な話である。

小さな政府と行政活動自体の民営化を行えば、経費を下げることが出来るし、全ての行政活動を民営化して、採算事業にすれば、なんと、「歳出など不要になる。」

採算に合わない「事業」は、文字通り切り捨てれば良い。
但し、「採算に合わない」というのと、「採算に合わすことが出来ない」のとでは、違うので、十分な見極めが必要だが。

無駄の様に見えても、採算に合わすことが出来る「事業」は、その事業の許諾権自体が換金性を有している。

つまり、ゼニに変えることが出来るのである。

民主党が「金の無駄遣い」と切り捨てた事業の中にも民営化をすれば、ゼニに変えることが出来るものがある。

企業に行政特許権を買ってもらえば良いのだ。
販売額に見合って、法人税を緩和すればよい。

どれだけ国民の税金がつぎ込まれて来たか判らない事業を「無駄」の一言で、馬鹿みたいに切り捨ててしまったら、これまで投入された血税が無駄になるばかりか、折角の国庫収入の機会を失うのだ。

(独)さん等が、それなりに暖めてきた「無駄遣いのノウハウ」を民間に有償でライセンスの形で譲渡すれば、喜んで引き受けるところも出てきて、「民も喜び、国も潤う」のである。

特に基金関係の運用等、外資系の企業でも飛びついてくる筈である。

そうすれば、所得税、法人税、消費税、全ての税金が必要なくなる。

金喰い虫の自衛隊を民営企業にして、海外派遣も請負料金を取れば良い。

例えば、アメリカの原油流出事故でも出動して、その「料金」をもらえばよい。(いわゆる傭兵である。)

若年失業者の雇用対策としても大きな効果が期待出来る。

国債償還にも消費税をつぎ込む必要はない。

IMFが圧力をかけてきたら、大量に日本が保有している米国債の早期償還を要請すれば良い。国債以上にアメリカに多くの金を貸しているし、円借款についても、お金で肥え太った中国に利子をつけて返してもらうべきだ。

まぁ、こんな訳の判らないことを始終考えているのだが、河村さんのお話には感銘を受けた。

健康の為に携帯し過ぎに注意しませう2010/05/20 21:43

 「喫煙と携帯とどちらが身体に悪いでしょうか?」

 禁煙が昨年以上に厳しくなっており、煙草代の値上げと共に、殆どの場所で喫煙がしづらい状況となっている。

 健康被害を防ぐ為ということで、副流煙の被害で吸わない人にも被害を与えるということが、特に禁煙が推奨される理由。

 喫煙と携帯とは非常に似ている。阪急等の私鉄では、携帯電話電源オフ車両というのがある。良く違反している人がいるが、車掌がしつこく注意するので、なかには、くってかかる人もいる。

 座席に座っていて、目の前に立っている人がメールしているのは、良くみられる風景だが、これって一番危ない。携帯のマイクロ波が座っている人の脳を直撃している。

 携帯をいつも首に提げたり、身につけたりしている人もいるが、これは、特に妊婦さんはやめるべきで、胎児にも悪いし、ガンの原因になる。煙草よりもガンにかかる割合が高いという。

 このビッグイシュー5月1日号(142号)では、「キッヅ携帯大反対」となっているが、その根拠は、子供は大人よりも頭蓋骨が薄いので、電磁波が脳を直撃するので、非常に悪い影響を与えるという。

 男もベルトに携帯を固定すると、精子が破壊されるという。電子レンジの使用されているよりも威力がある電磁波照射なので、避妊には大きな効果がありそう。

 神経細胞も破壊する。私もPHSの時は、耳は良かったが、ドコモ携帯に変えてから、覿面に高域聴力が低下した。

スポーツ選手も携帯をやめて、PHSにしよう。
 微細な運動神経の細胞を破壊し、運動障害の原因になる。

 聴力検査してみると、もともと効き耳だった左の聴力が落ちている。携帯を耳に当てて使用することで、脳細胞、聴覚細胞がどんどん破壊されていく。

 50年位昔ならば、直径10㎝位の巨大な発振用真空管が何本も使用され、巨大な電波塔から照射されていた電波エネルギーを子供から年寄りまで個人が持ち運ぶ風景、自然のエネルギーの摂理からみても、マイカー1人1台に匹敵する「神をも恐れぬ行為」である。

 携帯は、たしかに便利だが、本格普及したのが、93年位だと思うので、未だ20年経過していない。恐らく携帯電話由来による各種の悪性腫瘍、脳神経障害、聴覚神経障害、奇形児の発生率の増加と煙草等、比べものにならない程、弊害が発生してくるだろう。

 ビックイシューによると、NHKが携帯の危険性について取りあげて番組は、2~3例しかないという。外国では、携帯電話の危険性は、十分に認知されており、国営放送局では、様々な警告番組が放送されている。

 僕も携帯を使用する時は、ヘッドフォンを使用し、なるべく身につけないように。あるいは、PHSに再び乗り換えようかと思う。

 妊婦さんにとっては、サリドマイド以上に有害である。

 安全第一である。

神戸の街の白々しさ2010/05/17 22:11

 神戸の街というか、中央区になじめない理由についてあれこれ考えている。 例えば、この建物。実は、新しいビルなんだけれど、ワザとボロクみせている。

 こんな風に外壁が剥がれて煉瓦がみえている風。これは、実は、メイクなので、ここに煉瓦がある様にしているので凄いと思う。

 おうぶ山荘だったら、地(ジ)で行けそうだが、本当にボロかったらあかんのが「神戸スタイル」

 この町、何もかも作り物。最近は、その度合いが一層酷くなった。

 何故か。それは、神戸でしか売っていないもの、作れない商品がなくなってしまったので、店舗の建物(つまりウツワ)で商品のイメージでデコレート(装飾)して作りだそうしている姑息な手段。

 これは、京都も一部でそうだが、京都の場合は、本当に京都にしか無い商品が多くあるので、ウツワも中身もオリジナリティがあるから許せる。

 なんか、この彫像もワ

ザと臭い、つまり、ワザと臭いマチ、神戸である。


 もっと、神戸人の「地」を出して、マチの魅力につなげる工夫とかないのか。

 京都であれば、地域コミュニティとか強くて商店街の活性化とかあるけれども、神戸は、良い意味「個人主義」的で、醒めた面があるので、どうしても白けてしまうのである。

私たちは、「人間である」(ヒトとしての道を歩む)2009/12/04 10:34

大阪府立大学人間社会学部パンフレットから


 私たち国文学を研究しているものとしては、大阪府立大学と言えば、説話文学の田中宗博教授が思い浮かぶ。


 説話文学といえば、今昔物語集や宇治拾遺物語、発心集等の作品が挙げられる。

 説話文学作品へのアプローチには、様々な側面から可能である。史料的側面、地理的側面、社会史、思想史、心理学等人間科学的側面からも可能である。

 また、説話から、更にその周辺領域である和歌や物語とも関連を持ち、時空の隔たりを経て芥川等の近代文学世界への関連を持っている。

 2009年の春には、大阪府立大学が人間社会学部として改編されて、最初の卒業生が巣立った。卒論には、今昔物語第27怪異説話の研究、熊野の本地、日本古典文学における狼についての研究等のユニークなものもある。

 府立大学の場合は、文学作品にのみならず、言語文化について広い視野を持って取り組んでいる。

 その中には、言語情報処理、言語データ処理、応用言語学、異文化間コミュニケーション等も含まれている。


 「言語」は、人間文化の基本である。「言語」がなければ、思考や論理,
科学さえも成立しない。

 つまり、人間の存在の基本は、「言語」であり、それを研究する学問は、私たちが、「人間である」(ヒトとしての道を歩む)ということを前提に、社会に存在している限り、必要不可欠な学部、学科なのである。

http://www.human.osakafu-u.ac.jp/download/index.html

佐久間清太郎からは、徐々に精気が失われ、やがて死に至る2009/11/01 09:50

 以前、白鳥由栄に関して、このブログに書いた後で、ある読者から吉村昭の『破獄』を読んだらとお薦めを受けたがほおっておいた。

 しかし、その後、なんとなく「破獄」が読みたくなって、ジュンク堂書店で購入。

 早速、読み始めた。主人公の名前は、佐久間清太郎。

 実際には、この人物だけの描写ではなくて、大正末期の破獄事件から、佐久間清太郎が無期刑の判決を受けて、昭和11年の青森刑務所に服役を始めるまでの刑務所の歴史等が、前史として描かれた後、年代順に、秋田刑務所、網走刑務所、札幌刑務所脱獄に至るまでがノンフィクション的に描かれていく。

 記述の内容としては、佐久間清太郎についての記述が20~30%程度みられるが、残りの70~80%が、刑務所が社会・パラダイムの変化でどの様に翻弄されていったかの記述にウエイトが置かれている。

 刑務所に関連する行政制度、法規で、収監・管理体制がどの様に変わっていったかが、経年的に記述されていく。昭和史の一側面といっても良い状況が、刑務所制度の視点から描かれていくのは、ユニークである。

 2.26事件についても簡単に描かれており、更に、その後の挙国一致体制の中で、収監者の扱いはどう変わっていったか。
 資料は、当時の新聞記事、刑務所関係者からの聴取、あるいは、囚人直々のインタビューもあったかも知れない。

 刑務所は、北海道から沖縄まで存在するが、全国の刑務所が戦中から戦後にかけて、どの様な状況に見舞われていったが、非常に詳細に記述されている。引用文献、資料の所在が明記されておれば、これはこれで貴重な学術資料になる。

 ところが、肝心の佐久間清太郎については、舎監からの視線、あるいは、やり取り、事実が描かれており、佐久間清太郎の心理も3人称的、観察的に描かれていて何やら、物足りない。でも、これが著者の個性というか、この作品の特性なんだろうと思う。

 破獄の技術についても書かれているが、もっと詳細な検証、分析が欲しかった。

 国民の死亡率と囚人の死亡率が戦前から戦中、戦後まで時代の推移を示す指標・示準として書かれているが、戦時中の食料配給制度の中で、網走刑務所の収監者の労働作業を行っている囚人に与えられた食事は、一般国民や舎監よりも上等であり、こっそり囚人食をつまみ食いしていた舎監が免職処分になった事件も扱われている。

 戦況の悪化の中で、看守の待遇は囚人に比される程ひどいものであった。しかし、それも戦況の悪化で、求人難となり、囚人の管理・監督が困難になっていく。

 そこで登場したのが、特警制度というもので、模範囚が重罪囚人を管理させる「自治組織・部隊」の様なものであった。

 しかし、これも、戦後に入ると、暴力団関係の囚人が幅を効かす様になり、刑務所長に力づくで、仮釈放を強要する事件まで発生する。
 戦後になって、政治犯が釈放され網走を出獄する宮本顕治の様な獄中非転向を貫いた政治犯の釈放の様子も描かれている。

 宮本は、東京の刑務所に収容されていたが、戦況の悪化で、爆撃によって囚人が逃走するのを防ぐ為に政治犯、凶悪犯は地方の刑務所に移送されたのだった。

 戦後も佐久間清太郎の破獄は続く。一番、破獄が困難だったのは、やはり網走刑務所であったろうと思うが、その後の札幌刑務所以降は、刑務所自体の管理能力の低下で、破獄は驚く程簡単であった。

 佐久間清太郎の脱獄が回を重ねるにつれて監視、拘束が強さを増していき、未来少年コナンに描かれている様な手錠や足枷で拘束され、犬の様な姿勢でしか食事をさせてもらえない。

 それでも佐久間清太郎は、看守との心理作戦でまず勝利を収め、心理的に圧倒し、ひるんだ隙に脱獄をする。刑務所側からは、脱獄ではなくて、「事故」という呼ばれ方をしているのが面白い。

 結局、刑務所における囚人管理の中で、最も重要なのは、分厚い壁や高い天井、容易に破壊されない拘束具ではなくて、舎監と囚人の心理的関係である。

 最後に収監された小菅刑務所では、佐久間清太郎は脱獄しなかった。それなりに人間性を尊重され、部屋に小鳥まで飼育することを許される。彼の視線は穏やかに変わり、「もう、疲れましたよ。」といって脱獄を止める。

 佐久間清太郎の目は穏やかになり、模範囚として、釈放されて工事現場で働く、最後に浅草の映画館で心臓発作を起こして死ぬ。拘束が解かれた佐久間清太郎からは、徐々に精気が失われ、やがて死に至る。

 でも、模範囚としての佐久間と脱獄を繰りかえした佐久間とでは、どちらが人間的魅力を持っているだろうか。
 
 つまり、佐久間清太郎は、拘束・抵抗・破獄という流れ中で、逆境への抵抗が壮年期を通じた人生のエネルギーだった。

 戦前・戦中の刑務所を取り巻く環境、国民全体が牢獄に閉じ込められた様な状況から、自由民主主義への変化で、国民の覇気も失われ、脱獄を諦めた佐久間と比較されている。

 戦前から戦後に至るパラダイムの変化に翻弄された国民全体の象徴として佐久間清太郎が描かれているのではないだろうか。

 文章表現等が読みづらい面があり、描写技術は今ひとつだが、内容的には充実した作品だと思った。

「悪い時代=21世紀的選民ならぬ賤民人生」(一部訂正)2009/10/14 23:02

  私は、時代を先取りして「悪い時代=21世紀的選民ならぬ賤民人生」を歩んできた。

 ニートの最も、高年齢世代が40台前半と言われているが、私は、40台後半でパラサイターをしており、ニート、フリーター、派遣等の転落を数多く経験してきた。

 派遣もFワークという会社などは、1980年頃から法律で禁止されている工場派遣労働を請け負って来たが、今や、それは合法化されている。

 今、一番、問題になっているのは、若者に住宅がないことである。

 写真は、ビッグイシュー10月15日号(128号)の記事であるが、賃貸住宅が有り余っているというのに住宅を借りられない若年層が大勢おり、安心して眠れる居住スペースもないままにクタクタになるまで働いて社会の根っこの部分を支えている低賃金労働者の現実がある。

 現代のプロレタリアアートは、戦前のそれよりもずっと貧困である。
 再生産活動が許されないからである。

戦前の下層社会は、セーフティネットワークを含めて、イギリス資本主義的な企業・啓蒙的福祉思想、あるいは、日本伝統社会に根ざしてきた貧困者救済のシステムが行政の手を借りずとも存在していたからである。つまり、それぞれの階層なりに再生産が可能であった。

 ところが、ブラックバス(資本家)が池の魚(貧者)を食べ尽くしてしまうような21世紀アメリカ型資本主義社会では、低所得者は、賃貸住宅の家賃も払えないので、社会の支援を受けられないままニート→パラサイト→ホームレスの道を歩み以外にない。

 こうした逆境にもかかわらず、勇気を出して、社会に飛び出していった若者を待っている現実は、若者に借りられる様な低所得者向け住宅もないホームレス人生である。

 レオパレス等をみても家賃は、5~6万円もする。最近では、建築基準法の改悪や規制の強化で、木賃アパートや文化住宅が関西圏でも姿を消しており、風呂付きの賃貸を都市圏では、年収200万円そこそこの生活では借りることが出来ない。

 UR賃貸や公団は、国民に安価な住宅を供給するということを目的としていながらも、所得制限とか、正社員が条件とか、富裕層以外の単身者には、これらの住宅を借りることが出来ない仕組みを作っている。

 これは、やがて年金生活に入る中高年層、私を含めて低所得労働者も同様で、年金収入では、現在の賃貸住宅の家賃を支払うことは難しい。

 だから、私の場合は、安定収入が期待出来る最後の10~15年間でローンを組んで、最低ランクの一戸建てを買おうとしているのに、周囲の目は批判的というよりも、差別的でありさえする。

 今、賃貸住宅に居住して、子供を育て、安定した老後を送れると確信している人達は、「選民」なのである。

 この「選民」とはエリートという訳ではない。

 社会の福祉制度システムの対象エリアに要領よく入ることが出来た人達であって、零細企業に勤めていても、こうした要領の良い人は、「選民」になって子育て手当とか、色々な福祉の恩恵や所得税控除の特典にあずかることが出来る。

 賃貸を借りることも経済的に困難な人達は、この対象・救済エリアからも外れている人が多い。


 変則的な人生を歩んできた人は、こういった境遇にあいやすい。言わば、「要領が悪い世間知らず」が、何時も割りをくって差別されるのが今の社会であることを、この雑誌や今日の飲み屋の出来事で痛感させられた。

「良い時代だったんだな。」と思えるDVD2009/08/23 18:02

 今日は、体調がすぐれないので自宅で過ごす。

 先日、ディアゴスティーニの「刑事コロンボDVDコレクション」19号、「別れのワイン」を購入した。

 このシリーズは、特定の好きな号だけ購入していたが、何故か、この号だけがなかった。

 早速、スゴ録に挿入して視聴するが、1970年代の風俗というか社会等がみえてきて、推理以外にも楽しめた。「良い時代だったんだな。」と思えるDVD。

 特に「良い時代」と思えたのが、ワインナリーを仕切っているカッシーニ・エイドリアンをコロンボが最初に、訪れてワインを嗜んだ後、エイドリアンが、フラフラになったコロンボに向かって、「せいぜい運転を気をつけるんですな。」というシーンとか、最後の場面で、コロンボ、エイドリアン、秘書の3人でレストランでワインを飲んだ後で、平然とボーイがクルマをもってきて見送るシーンとか、極めつけは、「別れのワイン」のテーマとなったシーン。コロンボ、エイドリアンの2人が、自供しに警察署に向かう自動車内で2人でデザートワインをグラスを傾けて乾杯するシーン。

まさに「飲酒運転天国」だ。凄いと思った。こんな訳だから、なかなか店頭においてなかったのだろうか。

コロンボが禁酒法時代について話すシーンがあったが、今の世の中は、「禁酒・禁煙法」でガチガチに人民が縛られる世の中になってしまった訳で、そういった目でこのDVDをみると、改めて、「良い時代だった。」と感じる訳である。

僕は、貧乏なので、70歳を過ぎたら、こういったところに行っても良いと思っている2009/08/01 23:04

Coolpixs S600で撮影。
 空には、風神、雷神が大暴れ。

 台風よりも凄い。

 朝方は遠くが見えない程で、PCMの音楽放送が宇宙からの電波の途絶で受信出来なくなり、途切れた。その後、落雷で一度、パソコンが落ちた。

 写真は、白ROMで購入後、活用しているF702IDで、ヨドバシのゴールドポイントカードもこれに切り換え、煙草もローソンでこれでedy購入と活躍している。ちょっとした小銭が無い時等、緊急に役に立つことがある。

 携帯ストラップは、ヨドバシ梅田の2階の外国人向けのお土産売り場で見つけた印籠とお守りと鈴がついたもの。鈴とお守りは嵩張るので、外して
鈴は、印籠の中に入れ込んであり、落とすと適度に音がなる様にしてある。印籠の蓋はもともと開いていたが、接着剤で固定。

 黄金というネーミングにマッチするストラップをつけてみた。年式が古くって分厚い携帯を持つこと自体が貧乏人の象徴なので、それをごまかすために黄金の装飾を施してある。

 費用は数百円程度。

 今日は1日中家にいた。鬱々としていた。ようやく風呂に入れた(夏なので、1日でもつらい)

 ジオン注入後の患部は順調であるが、排便が少し出にくくなった。水を大量に飲んでいる。肛門の周りが少し窪んだ様な感じがある。腫れが引いた為か。

 明日は、ソーラーカーレースだが、欠席。注射でお金を使い果たしてしまった。大腸ファイバーに残り1万円位かかるし、異常が見つかれば、アフラックのお世話になれるかも。
(入院手当とか一時金が下りる)

 今日も、賃貸住宅関係を調べるが2万円以下で風呂付きの物件を発見。壁はトタンで張ってあるが、僕の晩年には、トタン壁でも畳の上に寝れてお風呂に入れるだけで感謝かも。

 年金定期便の訂正書類を作成してポストに投函。年金の試算の式をエクセルに入力してシミュレートしてみると、大体、満額払い込んだ場合で、基礎年金と特別年金の合計で月12万円足らず。これでは、2万円以下の住宅でも介護とか医療保険等を搾取されていたら、食費や光熱費を切り詰められるだけ切り詰めても難しいだろう。

 消費税が将来15%に値上げされて、国民皆年金制度になったら、むしろ厚生年金の支給額は減額にならざるを得ない計算になるので、今、想定されるよりもずっと生活は厳しい。

 老後の満足ある暮らしを実現する為には、月30万円以上必要だというが、寿命が馬鹿みたいに延びている現在、20~30年間の生活費を計算すると、7千万円以上も必要になってくる。こんなカネを用意出来るのは一部の金持ち位なもので、一般人民には、1千万円でも難しい。1千万円だと20年で、月割り、4万1,600円位にしかならない。年金の支給がどれだけ莫大な財源、資金を必要とするか判るだろう。

 結局、超高齢化社会ともなれば、年金制度を維持して老後の生活資源の基盤にするというシステム自体が物理的に無理な話なので、資産が一定レベル以下の高齢者が生活費や医療費の支出を抑えて、必要最小限の生活が出来る更級日記に出てくる和歌(直接書くと差別発言になるので)の様な集合・協同生活設備を作る以外にない。

そこでは、個室といってもカプセルホテルの様な最小限のプライバシーを保てるだけで良い。私有財産も必要はない。

 集団単位で支給される年金を共有することで個別に消費支出するのに比べて効率的に生活維持資源に充当することができる。

 風呂や食事は、支給(配給)される。(国民皆年金の換わりにこうして集落の運営費に充てられる。)娯楽なんかも共同なので出来る。孤独死とか無いし、結構楽しいかも。Y会のR様と呼ばれる高齢者の方達がこうした共同生活を送っているのを見学したことがある。

 ここでは、家族そのものが共同体なので、年金の心配も何も要らないことになっている。蜜柑が食べたくなったら、果樹園でもいでくれば良いし、園内で採れるもので商業販売に回すもの以外は、自由である。

 お葬式の心配もいらない。

 僕は、貧乏なので、70歳を過ぎたら、こういったところに行っても良いと思っている。

「建前と本音」の距離が出来たことが気になった2009/06/23 10:56

「緊急告知」
http://subwww.bukkyo-u.ac.jp/view/dsc_tpc.php?id=2975&place=library

 佛大図書館の本が被害にあったらしい。

 いくらなんでも、程度の低いことをするものだ。破られている表紙からみて社会福祉の学生さんのようだが、こんな荒んだ心を持った人が福祉関係の資格を取得して、職場で働いたらどうなるんだろう。

 悪質な行為だが、こういった心を産む様な状況に至っている理由について、教学の立場から、考えなければならないと思う。

 昔、佛大通信に在学していて、最初に入学した時代に比べて、最後の頃は、「建前と本音」の距離が出来たことが気になった。

 教育学部主導で、実用的なもの、アグレッシブな部分を積極的に評価し、学・官教育の連携を強めるというのが、最近の佛教大学の風潮だが、学生に空虚感が産まれてやしないか。

 これは、佛大だけではない、また、社会福祉や教育の分野だけではない、文学や芸術の分野までも含めて、ランキング・ラベリングと、セミプロ化が進み、やがては、人間関係までもが、「建前と本音」の間の距離が、どんどん開いていく空虚感というものが、人間らしい心を押しつぶしてしまうのだと思う。