誤解された仏教2006/11/18 21:25

電車の中でカバーをつけずに読んでいたので痛んでいる。
今日は、本当は、平曲の公演が佛教大学アジア宗教文化センターであって、関山名誉教授が解説されると言う事で上京したかったが、天気も悪く、日もささずのクラーイ朝だったので、ブルーな気持ちになって一日中家に閉じこもって本を読んでいた。

『誤解された仏教』(秋月龍珉著 講談社学術文庫)を電車の車内で読んでいたが、後半になって判らない箇所が出てきて読み終わらないで難儀していたのを一応最後まで読み通しというか、頁をめくり終わった。

たしかに、梵我一如論や現在の「葬式仏教」の教義ともいえる輪廻転生を釈迦は認めていない言う考え方にはうなずけるが、更にもう1歩踏み込んで欲しかった。


その点、今夏、佛教大学のスクーリング「ブッダの教え」を担当された松田 和信先生の講義では、果たして仏教とは、宗教なのか思想なのか、釈迦は宗教者になる事を目指されたのか、それとも、もっと現実的な方法を覚り、人を導かれたのかと言う点を考えさせられた。

「誤解された仏教」では、たしかにこれ以外に「なるほど!」と考えさせられたところでは、

・釈迦の覚りとは、「縁起の理法を悟った」と、説明している仏教学概論の教科書や先生方から「正法」を学ぶ事は出来ない。例え、所謂、学識者よりも、毎日の修行の中で、例え、「ノミのキンタマ・・・・」程度でも本当の覚りを得た師以外から学ぶ事は意味がない。
と言う点も、首肯すべき点はあると思う。私も岩波文庫の『仏陀の言葉』等を読み進み、幾つかの仏陀の生涯について記した概説書を読む限りでは、釈迦の覚りは、理によるものではなくて、直感による覚りであったと考える。釈迦は、梵天勧請が本当にあったかどうかは知らないが、恐らく、周囲の者達から教えを請われる中で、「ことば」で説法する段階で、「五蘊」、「四諦」や「縁起」等の語彙を考えられたのだと思う。そうして、恐らく、「ことば」から始まったのだと考える。だから、仏大のレポートでも「ことば」を重視して書いた。「理屈」は、ことばの結びつき・相互関係を表したもので、それ自体は、意味が無いと考える。しかし、前に書いた通りレポートの評価は最低であった。

まぁ、こういって点では関心したが、後半は、やはり大乗、特に禅の立場から空論や唯識論について説明されているが、これは、難しくて理解出来なかった。また、最後の方で、「日本人の霊性」が民俗としての自覚は、中世以降になると書かれているが、日本の思想史の中に出てくる文献、例えば『霊異記』等を見ても、少なくとも奈良末期から平安時代初期には、民衆レベルでも「霊性」については自覚しているととれる説話を見いだす事が出来るので、これは誤りと思う。

結局、最初の数章は非常に面白いが、それ以降は、あまり、読んでも意味がないと思う。