ロボちゃんの一人歩き ― 2007/09/28 13:57
マイロボットは、足回りの動きが今ひとつであったのをワッシャ等を追加したり、試行錯誤の結果、スイスイと動き回れる様になったので、音に反応して寄ってくるプログラム等を作成してみた。
ところが、センサーが思うように動いてくれないので、勝手な行動をとってしまうので困っている。
http://www.asahi-net.or.jp/~ZZ2T-FRY/robot.htm
デジカメ無くしましたぁ~ ― 2007/09/28 14:01
愛用のIXYデジタルが三重松阪の佛教大学東海ブロックの学習会から帰ってみたら、リュックの中を捜してもどこにもない。
本居宣長の旧宅や記念碑などの貴重な画像が入っているのにガッカリ。
それで落ち込んでしまってブログの更新どころではない。
こういった場合、私の行動パターンを思いおこして、どこでどうなったか冷静に思い返してみる必要がある。
松阪発、大和八木乗り換え、難波行きの特急に乗車したのは、9月23日午後14時25分だった。その時の様子を思い出してみる。
そうだそうだ!
指定座席に座ろうとしていたら、既に間違えて座っている人がおり、焦った。
その後の行動を思い返してみると、何時もは、列車から下車するときには、自分が立った後の座席を忘れ物がないか確認する習慣があったが、その時は、八木駅での乗り換え時間が迫っていたので、座席を確認しなかった事、トラブルと焦りで冷静さを失っていたのだと思う。
近鉄上本町の忘れ物センターをインターネットで調べて電話してみたが、私のIXYは、なんと京都駅まで一人旅をして、親切な人に拾われていた事が判った。
近鉄の人は親切でわざわざ難波駅まで届けてくれたので、そこで、無事受け取る事が出来た。
こんな忘れ物の時は大抵、諦めるしかないのが、無事に戻って来た事に感激。
拾った人に御礼をいいたいが、聞くのを忘れてしまった。
日本の通信教育発祥の地松阪 ― 2007/09/29 09:18
9月22~23日の佛教大学の東海ブロックの学習会に出席、国文学(中世文学)の黒田彰教授の講義を受ける事が出来た。
黒田先生が、文献学の講義をされると言う。特に何時も珍しい敦煌文書や漢籍、中世文学の資料を発掘されている先生による文献学の講義の値打ちは図り知れないと思い、はるばる松阪まで出かけた。
松阪は、日本の通信教育の発祥の地で、本居宣長が賀茂真渕と生涯に1度だけまみえた後は、手紙のやり取りで古典文学の基礎的な知識を身につけ、やがて国学大成に至った。
翌日は午前中で解散なので、午後からは、松阪城跡にある松阪公園に移築されている本居宣長旧宅を訪問した。
鈴野屋で有名な宣長の家は、もともと魚屋町にあったのだけれども、明治40年代にこの場所に移築された。
屋敷は、城跡の涼しい風が吹く松阪神社の鎮守の森の近くに佇んでいる。
狭い階段が土間から続いており、その上が宣長が国文学の研究を行ったところ。
建物の印象としては、非常に簡素で常に清潔な空気と光が建物の中に流れる様にされている。
雑念から離れた静謐さの中に、想像力が十分に育まれそうな空間が確保されている。
もともとこの建物があった魚屋町の屋敷跡も訪ねたが、やはり、そこも松阪らしい質素で清潔な町並みの中にあり、この建物に相応しい場所であった。
屋敷見学の後、記念館を訪問。宣長の国文学関係の手沢本、自筆本、掛け軸、画賛等が展示されていたが、その中で、特に注目されたのは、ひとかたまりの手紙の束であった。
それは、宣長と真渕の間でやり取りされた手紙であり、万葉集の解釈について、几帳面な宣長の質問に真渕が独自の筆跡に答えている内容。
特に万葉集の場合は、同じ語彙でも使われている歌、相聞歌、叙景歌によって、語義が異なっている事に注目している等、展示品の一部でしかうかがう事が出来なかったが、貴重な資料であり、200年前の通信教育の有様を実際に目で確かめる事が出来た。
この他、手沢本の湖月抄、紫文要領等の源氏物語関係の研究の自筆稿を見る事が出来たのも貴重な体験であった。宣長の筆跡は読みやすいので、翻字しなくてもある程度は理解する事が出来る。
「大和魂」の思想の根拠についてかかれた『直霊』の草稿を見れば、それは、単純な唐心(からごころ)の批判ではなく、あらゆる漢籍を十分に研究した上で、より上位の思想段階における批判である事もこれらの文献を見れば理解する事が出来る。
また、宣長の神道的な世界観を示す図も面白かった。平田篤胤も同様に「霊の真柱」で世界観を図示しているが、宣長の世界は、より多極的であり、横広がりの要素もあるが、篤胤の場合は、ある意味対立概念・西洋的で、「澄んだ空間」と「濁った重い空間」が上下に両極的に描かれているという事を見れば、国学の世界観が江戸時代の終わりにどの様に展開していったのかを知る事も出来る。
わずか数時間の参観であったが、大きなインスピレーションを得る事が出来た。
黒田先生が、文献学の講義をされると言う。特に何時も珍しい敦煌文書や漢籍、中世文学の資料を発掘されている先生による文献学の講義の値打ちは図り知れないと思い、はるばる松阪まで出かけた。
松阪は、日本の通信教育の発祥の地で、本居宣長が賀茂真渕と生涯に1度だけまみえた後は、手紙のやり取りで古典文学の基礎的な知識を身につけ、やがて国学大成に至った。
翌日は午前中で解散なので、午後からは、松阪城跡にある松阪公園に移築されている本居宣長旧宅を訪問した。
鈴野屋で有名な宣長の家は、もともと魚屋町にあったのだけれども、明治40年代にこの場所に移築された。
屋敷は、城跡の涼しい風が吹く松阪神社の鎮守の森の近くに佇んでいる。
狭い階段が土間から続いており、その上が宣長が国文学の研究を行ったところ。
建物の印象としては、非常に簡素で常に清潔な空気と光が建物の中に流れる様にされている。
雑念から離れた静謐さの中に、想像力が十分に育まれそうな空間が確保されている。
もともとこの建物があった魚屋町の屋敷跡も訪ねたが、やはり、そこも松阪らしい質素で清潔な町並みの中にあり、この建物に相応しい場所であった。
屋敷見学の後、記念館を訪問。宣長の国文学関係の手沢本、自筆本、掛け軸、画賛等が展示されていたが、その中で、特に注目されたのは、ひとかたまりの手紙の束であった。
それは、宣長と真渕の間でやり取りされた手紙であり、万葉集の解釈について、几帳面な宣長の質問に真渕が独自の筆跡に答えている内容。
特に万葉集の場合は、同じ語彙でも使われている歌、相聞歌、叙景歌によって、語義が異なっている事に注目している等、展示品の一部でしかうかがう事が出来なかったが、貴重な資料であり、200年前の通信教育の有様を実際に目で確かめる事が出来た。
この他、手沢本の湖月抄、紫文要領等の源氏物語関係の研究の自筆稿を見る事が出来たのも貴重な体験であった。宣長の筆跡は読みやすいので、翻字しなくてもある程度は理解する事が出来る。
「大和魂」の思想の根拠についてかかれた『直霊』の草稿を見れば、それは、単純な唐心(からごころ)の批判ではなく、あらゆる漢籍を十分に研究した上で、より上位の思想段階における批判である事もこれらの文献を見れば理解する事が出来る。
また、宣長の神道的な世界観を示す図も面白かった。平田篤胤も同様に「霊の真柱」で世界観を図示しているが、宣長の世界は、より多極的であり、横広がりの要素もあるが、篤胤の場合は、ある意味対立概念・西洋的で、「澄んだ空間」と「濁った重い空間」が上下に両極的に描かれているという事を見れば、国学の世界観が江戸時代の終わりにどの様に展開していったのかを知る事も出来る。
わずか数時間の参観であったが、大きなインスピレーションを得る事が出来た。
餓鬼草紙攷 ― 2007/09/30 11:48
仏教芸術コースでは、餓鬼草紙も仏教絵画史の中で、重要な位置づけとして学習する。
平安末期から鎌倉初期の絵画でこれ程、技法的にも優れている作品はない。佛教大学の中島純司教授によれば、両者ともに宮廷付きの絵描きもしくは、これに近い地位にあった人の手になるものと言う。
現存する作品で代表的なものは、東京と京都の国立博物館が所蔵しているものである。
東京国立博物館所蔵(河本家本)には、詞書が見当たらず、絵画のみであるが、女房の描かれ方等を見れば、王朝絵画の影響が見られ、しかも、鎌倉時代以降の後世の画家の筆致に比べてはるかに芸術性が高く、典雅な趣さえ感じられる。両者を比較してみれば、東京国立博物館のものが、京都博物館のものよりも技巧的に優れている事は明らかである。
東京国立博物館本の餓鬼草紙のテーマは、当時の生活風俗の中で、餓鬼は、どの様な姿で当時の人達と関わりを持っていたかと言う事になる。
佛教文化史的に見れば、墓地で死体を漁る餓鬼達を書いた2枚の絵画が重要である。
平安朝中期までの一般庶民の葬送・埋葬の方法は、野ざらしか、野焼きといったものであり、洛北の紫野や化野、鳥部山等がそういった古代からの葬送地域である。相当、高位の貴族の遺体でもこういった方法で埋葬された。
ところが、平安朝中期から末期にかけて、都の人口が急増し、疫病が流行した事、仏教信仰の民間への浸透が進み、墓地に埋葬するというスタイルが徐々に定着して来たのがこの時期だ。
この餓鬼草紙には、野ざらし放置、簡単な卒塔婆塔、立派な五輪塔と段階的に埋葬スタイルが描かれている。
餓鬼草紙をよく見れば、野ざらしや簡単な卒塔婆と土饅頭の埋葬では、餓鬼達に遺体は喰われて見るも無惨な有様となっている。一方、五輪塔等、立派な墓標の遺体は、餓鬼達には手が出せない。
つまり、当時、ようやく、広まりつつあった墓制・埋葬・供養法のあるべき姿を教訓的に伝えている面があるのではと考えられる。
一方、京都国立博物館(曹源寺本)は、詞書を持ち、一つのストーリーを持っている。それは、教典・説話の記述に基づいて、絵画が作成されており、絵巻風である。
先日の佛教大学の東海ブロック学習会にて黒田彰教授から頂いた論文「餓鬼草紙攷- 曹源寺本第三、第四段について-」(黒田彰著 関西大学『国文学』第91号)には、非常に興味深い事実が示されている。
その中には、目連が餓鬼道に落ちてしまったのを救済の為に施餓鬼供養を行う有様が記述されている部分があり、盂蘭盆経に基づいている。
図に上げた目連の供養によって、ようやく飯を食べられる様になった母親が他の餓鬼達にこれを与えまいと鉢の上に座り込んでいる部分は、どうゆう訳か詞書には、「(飯を)母にすすむるに心のままに食する事を得たり」とあり、救済を思わせる文章が書かれているが、飯鉢の上に座り込んでいることは描かれていない。
日本に流布している盂蘭盆経にもこの様な記述は見えないが、敦煌文書に見いだせる「浄土盂蘭盆経」には、正に絵画通りの一節が書かれている。
「母鉢飯を得て、即ち身を挙げ、鉢飯上に座す。なお、慳惜(けんせき・頑なにこれを惜しむ)の故なり。」
人は何故、餓鬼道に落ちるのか、人間の物への執着心の浅ましさを示している。
今は、失われてしまっている浄土盂蘭盆経は、8世紀以降の日本に伝来していた形跡を認める事が出来る。
京都博物館本の餓鬼草紙は、まず、浄土盂蘭盆経の伝統に基づいた「餓鬼絵巻」が宮廷絵師等により受け継がれて来て、伝統的に描かれて来たものに、既に浄土盂蘭盆経が失われた後世の作者が詞書を書いた為に、絵画と詞書の記述内容に異なる部分が生じたのだと考える。
私は、絵巻物を研究しているが、絵画の方は、伝統的に「カタ」として受け継がれているので、図案の変化は、長い年月をかけて変化していくが、文章は、直ぐに時代性が反映され変化してしまうものだと考えている。
また、東京国立博物館蔵のものと京都国立博物館蔵のものは、内容も書かれた目的大きく異なっている。それは、代々書き継がれて来た餓鬼草紙が盂蘭盆経の享受と言う仏教思想的な側面を持ちながらもその享受環境をめぐる社会や時代的な背景に大きく影響されているのだと考える。
平安末期から鎌倉初期の絵画でこれ程、技法的にも優れている作品はない。佛教大学の中島純司教授によれば、両者ともに宮廷付きの絵描きもしくは、これに近い地位にあった人の手になるものと言う。
現存する作品で代表的なものは、東京と京都の国立博物館が所蔵しているものである。
東京国立博物館所蔵(河本家本)には、詞書が見当たらず、絵画のみであるが、女房の描かれ方等を見れば、王朝絵画の影響が見られ、しかも、鎌倉時代以降の後世の画家の筆致に比べてはるかに芸術性が高く、典雅な趣さえ感じられる。両者を比較してみれば、東京国立博物館のものが、京都博物館のものよりも技巧的に優れている事は明らかである。
東京国立博物館本の餓鬼草紙のテーマは、当時の生活風俗の中で、餓鬼は、どの様な姿で当時の人達と関わりを持っていたかと言う事になる。
佛教文化史的に見れば、墓地で死体を漁る餓鬼達を書いた2枚の絵画が重要である。
平安朝中期までの一般庶民の葬送・埋葬の方法は、野ざらしか、野焼きといったものであり、洛北の紫野や化野、鳥部山等がそういった古代からの葬送地域である。相当、高位の貴族の遺体でもこういった方法で埋葬された。
ところが、平安朝中期から末期にかけて、都の人口が急増し、疫病が流行した事、仏教信仰の民間への浸透が進み、墓地に埋葬するというスタイルが徐々に定着して来たのがこの時期だ。
この餓鬼草紙には、野ざらし放置、簡単な卒塔婆塔、立派な五輪塔と段階的に埋葬スタイルが描かれている。
餓鬼草紙をよく見れば、野ざらしや簡単な卒塔婆と土饅頭の埋葬では、餓鬼達に遺体は喰われて見るも無惨な有様となっている。一方、五輪塔等、立派な墓標の遺体は、餓鬼達には手が出せない。
つまり、当時、ようやく、広まりつつあった墓制・埋葬・供養法のあるべき姿を教訓的に伝えている面があるのではと考えられる。
一方、京都国立博物館(曹源寺本)は、詞書を持ち、一つのストーリーを持っている。それは、教典・説話の記述に基づいて、絵画が作成されており、絵巻風である。
先日の佛教大学の東海ブロック学習会にて黒田彰教授から頂いた論文「餓鬼草紙攷- 曹源寺本第三、第四段について-」(黒田彰著 関西大学『国文学』第91号)には、非常に興味深い事実が示されている。
その中には、目連が餓鬼道に落ちてしまったのを救済の為に施餓鬼供養を行う有様が記述されている部分があり、盂蘭盆経に基づいている。
図に上げた目連の供養によって、ようやく飯を食べられる様になった母親が他の餓鬼達にこれを与えまいと鉢の上に座り込んでいる部分は、どうゆう訳か詞書には、「(飯を)母にすすむるに心のままに食する事を得たり」とあり、救済を思わせる文章が書かれているが、飯鉢の上に座り込んでいることは描かれていない。
日本に流布している盂蘭盆経にもこの様な記述は見えないが、敦煌文書に見いだせる「浄土盂蘭盆経」には、正に絵画通りの一節が書かれている。
「母鉢飯を得て、即ち身を挙げ、鉢飯上に座す。なお、慳惜(けんせき・頑なにこれを惜しむ)の故なり。」
人は何故、餓鬼道に落ちるのか、人間の物への執着心の浅ましさを示している。
今は、失われてしまっている浄土盂蘭盆経は、8世紀以降の日本に伝来していた形跡を認める事が出来る。
京都博物館本の餓鬼草紙は、まず、浄土盂蘭盆経の伝統に基づいた「餓鬼絵巻」が宮廷絵師等により受け継がれて来て、伝統的に描かれて来たものに、既に浄土盂蘭盆経が失われた後世の作者が詞書を書いた為に、絵画と詞書の記述内容に異なる部分が生じたのだと考える。
私は、絵巻物を研究しているが、絵画の方は、伝統的に「カタ」として受け継がれているので、図案の変化は、長い年月をかけて変化していくが、文章は、直ぐに時代性が反映され変化してしまうものだと考えている。
また、東京国立博物館蔵のものと京都国立博物館蔵のものは、内容も書かれた目的大きく異なっている。それは、代々書き継がれて来た餓鬼草紙が盂蘭盆経の享受と言う仏教思想的な側面を持ちながらもその享受環境をめぐる社会や時代的な背景に大きく影響されているのだと考える。


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