聞こえない「音」を描く源氏物語絵巻 ― 2008/05/07 22:24
源氏物語の構図を研究していて、恐るべきことに気がついた。
それは、絵画の極限への挑戦というべき「音」を巧妙な構図法を駆使して描こうとしていた。
佛大の教授先生は、どう評価するかは判らないが、源氏物語の構図類型を①収斂型、②移動型、③直線型、④焦点型、⑤俯瞰型の5類型に分類した。
①は、柏木巻にみられる様な光源氏と赤ん坊の薫君、女三宮だけの秘密の世界を有角画法で一つのポイントに集中させて描く方法。
②は、橋姫巻の様に本文叙述に従って、アイテムを次々に移動させて、空間的な広がりを狙う構図。
③の直線型は、②の特殊型で、移動を直線的に行う方法で強い方向性を持っている。
④の焦点型は、絵の構図上の1点を焦点として、それからベクトルが放射状に伸びる構図である。
図の上段は、鈴虫1で、構図類型は幾分曲がっているが、直線型で、この場合は、屋内から外部へとベクトルが伸びている。
屋内に居るのは、出家前の女房、右が、出家後尼姿の女房、庭(前栽)の鈴虫は、聖なる存在(音)である。
つまり、この構図は、内部の俗世界から聖なる音(鈴虫の音)に向かって浄化される過程を直線的に描いている。
中段も直線型である。これは、六条院の宴の有様で、夕霧が柏木の遺愛の笛を外の廊下で吹いている。真ん中は蛍兵部卿、一番奥は、光源氏である。
女三宮事件の苦しみは、柏木愛用の笛の「音」となって、家の外から、兵部卿を経由して光源氏に突き刺さる仕組みとなっている。
つまり、聖から俗の逆直線が光源氏の苦悩として表現されている。
私は、この鈴虫巻の構図は、敢えて、同じ直線構図で描かれる事により、霊が浄化される女三宮の姿と対照的に苦悩の澱の沈殿に徐々に苦しまされて最後には孤独な晩年を迎える光源氏の姿を敢えて対照的に描いたものと考える。
下段は、東屋1で、洛中の隠れ家に居る浮舟を薫君が訪問するところ。
ショボショボ降り始めた雨が徐々に勢いを増して、お付きの者は、雨宿りでどこかに避難。薫君は、辛うじて廊下に居るが袖が濡れている。
それでも雨勢は収まらず、お付きの者が放ったままの笠に雨が当たって、バラバラという雨音は徐々に大きくなって行く。
その時間の経過に伴い薫君の孤独な寂しさは募るばかり、そうして、前栽の草木になぞらえて和歌を独詠する。
こうした薫君と浮舟を同時に見る事が出来るのは、私たちだけである。
全ては、音の焦点(発生源)である笠に構図の焦点があつまり、詞書も、ちょうどこの笠の位置から周囲を見回すかの様に薫君と隠れている浮舟達のやり取りを雨音が大きくなる状況を経時表現にすり替えて描いている。
そう、これは、④の焦点型の構図法をとっている。
一見、不自然で無駄かと思われる雨傘が実は、構図と叙述の上で中心点となる重要な機能を持っていた事に気づかされた訳である。
この様に3例挙げた構図の全てが実際には聞こえない音を描く事によって構図上の大きな表現効果を持っている点には驚かされる。
こうした構図を考えた12世紀の源氏物語絵師達は、並みならぬ才能の持ち主だと言えるだろう。
この構図上の発見は卒論に書きたかったのだけれど、本筋から外れるので、ブログに取りあえず書いてみた訳だ。
それは、絵画の極限への挑戦というべき「音」を巧妙な構図法を駆使して描こうとしていた。
佛大の教授先生は、どう評価するかは判らないが、源氏物語の構図類型を①収斂型、②移動型、③直線型、④焦点型、⑤俯瞰型の5類型に分類した。
①は、柏木巻にみられる様な光源氏と赤ん坊の薫君、女三宮だけの秘密の世界を有角画法で一つのポイントに集中させて描く方法。
②は、橋姫巻の様に本文叙述に従って、アイテムを次々に移動させて、空間的な広がりを狙う構図。
③の直線型は、②の特殊型で、移動を直線的に行う方法で強い方向性を持っている。
④の焦点型は、絵の構図上の1点を焦点として、それからベクトルが放射状に伸びる構図である。
図の上段は、鈴虫1で、構図類型は幾分曲がっているが、直線型で、この場合は、屋内から外部へとベクトルが伸びている。
屋内に居るのは、出家前の女房、右が、出家後尼姿の女房、庭(前栽)の鈴虫は、聖なる存在(音)である。
つまり、この構図は、内部の俗世界から聖なる音(鈴虫の音)に向かって浄化される過程を直線的に描いている。
中段も直線型である。これは、六条院の宴の有様で、夕霧が柏木の遺愛の笛を外の廊下で吹いている。真ん中は蛍兵部卿、一番奥は、光源氏である。
女三宮事件の苦しみは、柏木愛用の笛の「音」となって、家の外から、兵部卿を経由して光源氏に突き刺さる仕組みとなっている。
つまり、聖から俗の逆直線が光源氏の苦悩として表現されている。
私は、この鈴虫巻の構図は、敢えて、同じ直線構図で描かれる事により、霊が浄化される女三宮の姿と対照的に苦悩の澱の沈殿に徐々に苦しまされて最後には孤独な晩年を迎える光源氏の姿を敢えて対照的に描いたものと考える。
下段は、東屋1で、洛中の隠れ家に居る浮舟を薫君が訪問するところ。
ショボショボ降り始めた雨が徐々に勢いを増して、お付きの者は、雨宿りでどこかに避難。薫君は、辛うじて廊下に居るが袖が濡れている。
それでも雨勢は収まらず、お付きの者が放ったままの笠に雨が当たって、バラバラという雨音は徐々に大きくなって行く。
その時間の経過に伴い薫君の孤独な寂しさは募るばかり、そうして、前栽の草木になぞらえて和歌を独詠する。
こうした薫君と浮舟を同時に見る事が出来るのは、私たちだけである。
全ては、音の焦点(発生源)である笠に構図の焦点があつまり、詞書も、ちょうどこの笠の位置から周囲を見回すかの様に薫君と隠れている浮舟達のやり取りを雨音が大きくなる状況を経時表現にすり替えて描いている。
そう、これは、④の焦点型の構図法をとっている。
一見、不自然で無駄かと思われる雨傘が実は、構図と叙述の上で中心点となる重要な機能を持っていた事に気づかされた訳である。
この様に3例挙げた構図の全てが実際には聞こえない音を描く事によって構図上の大きな表現効果を持っている点には驚かされる。
こうした構図を考えた12世紀の源氏物語絵師達は、並みならぬ才能の持ち主だと言えるだろう。
この構図上の発見は卒論に書きたかったのだけれど、本筋から外れるので、ブログに取りあえず書いてみた訳だ。
最近のコメント