白骨観2008/05/29 21:23

 安藤先生が26日に四条センターでキジル石窟の講演されたことは、前回ブログに書いたが、改めてそのレジュメを読んでいて、特に天空の山塊を表す菱形の中に禅定僧がいる構図の説明として、それは、鳩摩羅什訳の「禅秘要法経」の中の白骨観、四大観に関係が深いと書いてあったので、早速、岩波の佛教事典で調べてみたが、白骨観については触れてあったが、禅秘要法経の項目はなく、白骨観については、つまりは、白骨を観相することで煩悩を絶つという事で、九相図(あのおどろおどろしい1度見たら生涯忘れ得ない図)の白骨相を観相するという事につながるのだが、その観相と何故、キジール石窟の禅定僧と関連しているのか、納得できない。浄土宗の学校に通信の端くれとしてどうしようもない存在でいるのだが、それでも、やはり、次の言葉が想起される。

「夫れこの白骨を観ずるに、我とやせん、我に非ずとやせん。我に非ずとせば、身を離れず、自他共に白骨なり。死すれば白骨のみ残りて野辺にあり。我よはひ幾何ぞや。白骨をあらはさんこと須臾にあり。悲しい哉。白骨を顧みずして名利の心のみ常に絶えず。死して白骨をあらはすのみならず、今身の中に白骨あり。手を以て撫で觸るるに、何ぞ疑はん。 つらつら、一期の栄華を案ずるに、この白骨を愛して年月を送りぬ。白骨に衣裳をかざり、白骨の身を以て世を渡るといへども、この白骨も亦久しく世にあらず。頼み難きこの薄皮ひとへの白骨なり。唯願はくば、佛この白骨を哀れみ、正念往生を遂げさせたまへ。」

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ああ、南無阿弥陀仏