1.物まなびのすぢ2009/08/13 22:46

 今日は、昨日歩きすぎて、足が痛むので、家に居り、講談社文庫 本居宣長「うひ山ぶみ」を読み始めた。

 だんだんブログのネタもなくなり、ツマラナイと言われる様になってきたので、これを順々に勝手な注釈を加えていくことで記事の穴埋めにしたい。


1.物まなびのすぢ

①世に物まなびのすぢ、しなじな有りて、一やうならず。

 ここでいう、「すぢ」とは、なんだろうか。これは、分類、体系のことである。古楽(国学)という比較的狭隘な学問分野さえ、多様であり、一言では言い表せないものであると宣長は、指摘している。

 面白いのは、「うひの山ふみ」を始めるに当たって宣長は、「すぢ」について論じるところから始めている。つまり、「学問は体系から出発するものであり、全体の構成を俯瞰しなければ、枝葉末節のみを弄くっていても、何も理解出来ないことを示そうとしている。
 宣長、以前の和歌、古典、史書についての「学び」は枝葉末節の積み重ねが、堆積していくやり方であったが、宣長に近い時期の塙保己一の群書類従にみられる様に、体系的、分類的に資料文献をみていこうとする気風が生まれた時代であり、宣長のこの言葉にもその気概がみられる。


②そのしなじなをいはば、まづ神代紀をむねとたてて、道をもはらと学ぶあり。

 まず、その中で、一番重要なのは、いうまでもなく、古事記、日本書記他の日本の神代を扱った書物を学ぶ事で、これは、「道」である。つまり、ただ単に研究というよりも、「道を究める」という精神的修練が大切であるとしている。

 私が考えるところでは、現代日本の学問は、人文学にみられる様に多種多様の寄せ集めとなっているが、体系としてまとまるには、いたらず、結局、烏合の衆の寄せ集めになってしまう。今の民俗学等がその最たるものであろう。

 ここには、「道」の精神に欠けている。

 「道」を進む、極めるだけではなくて、師匠から子弟、更にその子弟から孫弟子へと連綿と伝えられるものであり、それが、国学(国文学)の歴史でもあるし、目的でもある。源氏物語の研究も旧帝國大学教授から高等学校の教員に至るまで、「道」として伝えられてきたものだと私は考えている。


③これを神学といひ、その人と神道者といふ。

 話はややぶれたが、神代紀を専ら学び「道」として極める人は、「神道者」と言われる。「神道者」は、宗教者であるが、現代の宮司、神職とは異なり、新たな「真実」を究めようとする態度がある点が異なっている。単なる儀式の伝承者ではない。

④また、有職・儀式・律令などをむねとして学ぶあり。

⑤また、もろもろの故実・装束・調度などの事をむねと学ぶあり。これらを有職の学といふ。

 有職故実を学ぶということは、江戸時代においては、ある意味伝統文化の実践であり、実用でもあった。だから、近代以降の我々が文化史という一言で片付けるこの分野は、国学、神学を実際の儀式として、正しく神道者として「生きて」、実践していく手段であったので、単なる知識の集成ではない。

⑥また、上は六国史其の外のいにしへ文(古書)をはじめ後世の書共まで、いづれのすぢによるともなくてまなぶもあり。

⑦このすぢの中にも、猶、分けていはば、しなじな有るべし。

 これは、書誌学のことを示している。書誌学という言葉は現在はなかったが、江戸寛永期以降の出版文化隆盛により、あらゆる古典籍が印刷、出版される様になり、巷の者どもでも容易に手に触れることが出来る様になった。図書が一般に流通する様になり、「本の分類、調査」が学びの「すぢ」として重要になっていく。


⑧また、歌の学び有り。それにも、歌をのみよむと、ふるき歌集・物語書などを解き明らむるとの二やうあり。

 近代以前の古典(国文研究)については、歌学等、実際の歌会や俳諧連歌の実践になる知識を得る為の研究と、あるいは、現代の国文学者がやっている様に、古い時代の作品に注釈、考証を加える研究があることを示している。

 定家卿の時代くらいまでは、歌の学びの道は、一筋であった。しかし、六条派の歌学が台頭し、これらとの論争が激化する中で、やがて、歌論に「勝つ」為のディベートの根拠となる知識としての平安朝以前の物語や和歌が重要視される様になっていく。
 こでは、宣長は、どの様な「すぢ」が正しいのかは述べていないが、おそらく、これから、この書物を読み進むことで明らかにされていくのだろう。

 こんな訳で、「物まなびのすぢ」の段が終わる訳だが、宣長が非常に客観的に当時の古典研究の状況を把握していたことが判り興味深い。「大和魂」や「もののあはれ」等の精神論的な側面で捉えられてきた宣長であるが、ある意味、即物、唯物的な見方をも有していたことがここから推察出来るのである。

 写真は、旧宅「鈴屋」の内部から宣長の視線を再現したもの。