これが「座」の文芸と言えるのか2011/02/05 10:01

蕪村賞が決定したが、やはり同人を主宰、あるいは、同人のメンバーの俳句詠みの人たちである。

こういった意味で、俳句というのは、「座」の文芸と言われるが、現代における「座」(同人)というのは、「組織」に近い。

つまり、ゲゼルシャフトである。
一方、「座」は、ゲマインシャフトである。

現代の俳句界は、ゲマインシャフトをゲゼルシャフトに変質させることで、生き延びている。

ところが、俳句は、俳諧と違って、個人の視点、観点から詠まれ、連句の様な連続性、協調性をもたない近代芸術である。

そんな個人主義的な文芸なのに、ゲゼルシャフト的な扱われ方をすれば、それは、不幸というか気味が悪い。

そうした本質的な欠陥をベールに隠すために、新興宗教的なカリスマ化、あるいは、集団規律化であり、カルトと変わらない。

名前を出すのははばかられるが、やはり、ある同人に入って、集団の会に参加したり、投句の誤植の訂正をお願いしても頑なに聞き入れられないといった状況をみて、その様な認識をもった次第である。

正岡子規によって創始されたと言える近代俳句は、最初から、「座」の性格を持っていたが、ゲゼルシャフトをもっとも嫌っていたのは、子規自身であることは、日清戦争の従軍記等をみても判る点である。



立春しぼりの酒馥郁たるや
梅が香に杯重ね吟々と
うらうらとそよ風吹きて山遙か
谷底の風渡り来てめじろ啼く
雀の子垣根に並び始業式

コメント

トラックバック