ガリレオの「宇宙」も「調和の幻想」に過ぎず ― 2009/01/04 23:41
今年は、ガリレオが望遠鏡(彼が発明者との説は嘘で、既に先に組み立てた人がいるのをきいて、追試した訳である。)を組み立てて、始めて天体に望遠鏡を向けて観測を始めて400年という年に当たる。
望遠鏡での天体観測は意外にも日本にもはじめられて早い時期に伝わり、徳川家康が月面に望遠鏡を向けたこと記述が残っている。(関ヶ原合戦の年代や徳川幕府の成立時期を考えるといかに早く世界中に天体望遠鏡が伝わったかが判る。
ガリレオ式望遠鏡は、凸レンズに凹レンズの接眼鏡を組み合わせた幼稚なものであり、倍率は、30倍程度、月面のクレーター、金星の満ち欠け、木星のガリレオ衛星は見えたが、土星の輪は判らなかった。なにやらコブの様なものが左右についているという記録が残されている。
伝記を読んだ小学生の私も父親からもらったヤシカの2眼レフのファインダーのレンズから凹レンズ部分を抜き出して、長焦点の凸レンズを組み合わせて、早速、最初の望遠鏡を組み立てた。レンズ枠から鏡筒まで全てボール紙製であった。
残念ながら、月面のクレーターは確認出来なかったが、五月山に登って家の方を眺めて、自宅の屋根がハッキリ見えた感銘は忘れない。
400年の記念行事としてガリレオの望遠鏡を組み立てる催しやキットが発売されている。
http://www.astroarts.co.jp/news/2008/12/04telescope_workshop/index-j.shtml
実際にレンズを磨くところから始める体験行事も企画されている。実際に天体観測には、視野が狭いガリレオ式よりもケプラー式(凸レンズに凸レンズを組み立てた望遠鏡)が適している。
ところで、最近の子供は、あんまり偉人伝等を読まなくなったようだ。私は、読書では、事実について書かれたものしか興味がなくて、伝記やファーブル昆虫記は良いと思ったが、シートン動物記や椋鳩十は、動物の行動が人間の様に脚色されているので嫌いだったし、最近の子供に好かれている宮沢賢治等も嫌いだった。
最近の子供は、大人が植え付けた「甘っちょろい・夢のイメージ」で詩歌、俳句、童話、ポニュとか、カピバラや、宮崎アニメにホンワカしているが、それが、日本の競争力の低下を招いているのだと思う。こうして、コンピュータハイテクと童話・イメージの世界が共存しており、これは、不況に直面している世界経済の甘っちょろさに通じると思う。
「もっと事実を観察して見つめて欲しい。」
ガリレオ・ガリレイと私の出逢いは、種痘の父、ジェンナーの伝記を本屋で探していたが、見つからず、仕方なく、ポプラ社かなんかの小学校中学年向けの伝記を買って読んだことに始まる。
今年の天体ショーとして、ガリレオを記念する年にピッタシなのが、「土星の輪消滅年」であることで、ちょうど土星の輪が地球との傾き加減で消滅するのが、太陽のむこうがわの位置になるので、観測出来ないが、厚さ数十キロの輪がいかに薄いか体験出来るかが、今年の秋以降に判明するだろう。
ガリレオの功績としては、コペルニクスの地動説を実際に観測で証明した(ガリレオ衛星)ことにあるが、これは、科学的発見というよりも、宗教・哲学的な新たな思想展開という点の方がむしろ注目される。
つまり、太陽系のミニモデルとして木星系の観測で証明した訳である。今の時代もむしろガリレオの延長上にある。「太陽系外惑星の発見」で既に木星の倍位の惑星が存在する恒星系が幾つも発見されており、太陽系以外の惑星の存在が着実に証明されつつある。惑星の大気さえ観測されており、これらも科学的功績というよりも、新たな「生命観」、思想の誕生につながる可能性がある。
現代社会には、「宗教裁判」は存在しないが、研究・業績へのアカハラ等や差別も多く存在する等、折角、優れた研究や業績があっても認められないのは、ガリレオ時代と同じであろう。
ガリレオの科学的発見で最も評価されているのは、「振り子の等時性」であり、これらは、ガリレオの天体望遠鏡を惑星観測が可能な水準まで引き上げたクリスティアーン・ホイヘンスによって、時計に応用される。これらの研究は、重力加速度等の天体力学へと応用されていくので、望遠鏡の観測よりも、ずっと重要であるだろう。
更に面白いのは、ガリレオの家系は、ルネサンス時代には、有名なリュート奏者(マンドリンの様な形をしていて多くのコース(弦)が張られていて、複雑なポリフォニーの曲も演奏出来る。)の家系である点である。
ガリレオの父のヴィンチェンツオ・ガリレイは、リュートの為の作品集を残しており、日本でもギター曲に編曲されたものが出版されており、あの有名なサルタレルロ等の舞曲も幾つか収められており、叙情的な美しい作品も多い。私も一時は、リュート音楽の演奏に凝った時代があり、テープに演奏も残っている。
ガリレオ・ガリレイは、親父さんよりもリュートの演奏が巧みであり、振り子の等速性等の研究には、リュート弦が使用されたとか。弟のミケランジェロ・ガリレオもリュート奏者でイタリアを出て、ポーランドの宮廷で活躍する。
その後、ガリレオ家には不幸が訪れる。
家族全員がペストで亡くなり、ドイツに逃れた甥だけが生き残り、ミュンヘンの宮廷で活躍する。
以前、「ハルモニア・ムンディ」のことを取りあげたが、ガリレオもやはり、天体の運動を彼なりの新しい宇宙観で、調和があると考えていた。
この点が、現代天文学と異なるところで、現代天文学では、急激な時空の歪みが亀裂を産み、その破滅と崩壊への途上の刹那の時間にたまたま私たちが存在している世界が存在しているのに過ぎず、エントロピーの過程を辿っているのである。
「それでも地球は回っている。」という彼の言葉も事実であるが、最近の観測で、特に、閏年の挿入が6年置きに延期された様に地球の自転速度の変化が最近の10年間で大幅に変動しているので、「時間学者」にとって悩みの種となっている。
宇宙の調和的構造が、等速・規則運動や美しい音楽のハーモニーを産んでいるというのは、実は、「唯識」の「幻想」に過ぎないのである。
写真は、ハンガリー切手
望遠鏡での天体観測は意外にも日本にもはじめられて早い時期に伝わり、徳川家康が月面に望遠鏡を向けたこと記述が残っている。(関ヶ原合戦の年代や徳川幕府の成立時期を考えるといかに早く世界中に天体望遠鏡が伝わったかが判る。
ガリレオ式望遠鏡は、凸レンズに凹レンズの接眼鏡を組み合わせた幼稚なものであり、倍率は、30倍程度、月面のクレーター、金星の満ち欠け、木星のガリレオ衛星は見えたが、土星の輪は判らなかった。なにやらコブの様なものが左右についているという記録が残されている。
伝記を読んだ小学生の私も父親からもらったヤシカの2眼レフのファインダーのレンズから凹レンズ部分を抜き出して、長焦点の凸レンズを組み合わせて、早速、最初の望遠鏡を組み立てた。レンズ枠から鏡筒まで全てボール紙製であった。
残念ながら、月面のクレーターは確認出来なかったが、五月山に登って家の方を眺めて、自宅の屋根がハッキリ見えた感銘は忘れない。
400年の記念行事としてガリレオの望遠鏡を組み立てる催しやキットが発売されている。
http://www.astroarts.co.jp/news/2008/12/04telescope_workshop/index-j.shtml
実際にレンズを磨くところから始める体験行事も企画されている。実際に天体観測には、視野が狭いガリレオ式よりもケプラー式(凸レンズに凸レンズを組み立てた望遠鏡)が適している。
ところで、最近の子供は、あんまり偉人伝等を読まなくなったようだ。私は、読書では、事実について書かれたものしか興味がなくて、伝記やファーブル昆虫記は良いと思ったが、シートン動物記や椋鳩十は、動物の行動が人間の様に脚色されているので嫌いだったし、最近の子供に好かれている宮沢賢治等も嫌いだった。
最近の子供は、大人が植え付けた「甘っちょろい・夢のイメージ」で詩歌、俳句、童話、ポニュとか、カピバラや、宮崎アニメにホンワカしているが、それが、日本の競争力の低下を招いているのだと思う。こうして、コンピュータハイテクと童話・イメージの世界が共存しており、これは、不況に直面している世界経済の甘っちょろさに通じると思う。
「もっと事実を観察して見つめて欲しい。」
ガリレオ・ガリレイと私の出逢いは、種痘の父、ジェンナーの伝記を本屋で探していたが、見つからず、仕方なく、ポプラ社かなんかの小学校中学年向けの伝記を買って読んだことに始まる。
今年の天体ショーとして、ガリレオを記念する年にピッタシなのが、「土星の輪消滅年」であることで、ちょうど土星の輪が地球との傾き加減で消滅するのが、太陽のむこうがわの位置になるので、観測出来ないが、厚さ数十キロの輪がいかに薄いか体験出来るかが、今年の秋以降に判明するだろう。
ガリレオの功績としては、コペルニクスの地動説を実際に観測で証明した(ガリレオ衛星)ことにあるが、これは、科学的発見というよりも、宗教・哲学的な新たな思想展開という点の方がむしろ注目される。
つまり、太陽系のミニモデルとして木星系の観測で証明した訳である。今の時代もむしろガリレオの延長上にある。「太陽系外惑星の発見」で既に木星の倍位の惑星が存在する恒星系が幾つも発見されており、太陽系以外の惑星の存在が着実に証明されつつある。惑星の大気さえ観測されており、これらも科学的功績というよりも、新たな「生命観」、思想の誕生につながる可能性がある。
現代社会には、「宗教裁判」は存在しないが、研究・業績へのアカハラ等や差別も多く存在する等、折角、優れた研究や業績があっても認められないのは、ガリレオ時代と同じであろう。
ガリレオの科学的発見で最も評価されているのは、「振り子の等時性」であり、これらは、ガリレオの天体望遠鏡を惑星観測が可能な水準まで引き上げたクリスティアーン・ホイヘンスによって、時計に応用される。これらの研究は、重力加速度等の天体力学へと応用されていくので、望遠鏡の観測よりも、ずっと重要であるだろう。
更に面白いのは、ガリレオの家系は、ルネサンス時代には、有名なリュート奏者(マンドリンの様な形をしていて多くのコース(弦)が張られていて、複雑なポリフォニーの曲も演奏出来る。)の家系である点である。
ガリレオの父のヴィンチェンツオ・ガリレイは、リュートの為の作品集を残しており、日本でもギター曲に編曲されたものが出版されており、あの有名なサルタレルロ等の舞曲も幾つか収められており、叙情的な美しい作品も多い。私も一時は、リュート音楽の演奏に凝った時代があり、テープに演奏も残っている。
ガリレオ・ガリレイは、親父さんよりもリュートの演奏が巧みであり、振り子の等速性等の研究には、リュート弦が使用されたとか。弟のミケランジェロ・ガリレオもリュート奏者でイタリアを出て、ポーランドの宮廷で活躍する。
その後、ガリレオ家には不幸が訪れる。
家族全員がペストで亡くなり、ドイツに逃れた甥だけが生き残り、ミュンヘンの宮廷で活躍する。
以前、「ハルモニア・ムンディ」のことを取りあげたが、ガリレオもやはり、天体の運動を彼なりの新しい宇宙観で、調和があると考えていた。
この点が、現代天文学と異なるところで、現代天文学では、急激な時空の歪みが亀裂を産み、その破滅と崩壊への途上の刹那の時間にたまたま私たちが存在している世界が存在しているのに過ぎず、エントロピーの過程を辿っているのである。
「それでも地球は回っている。」という彼の言葉も事実であるが、最近の観測で、特に、閏年の挿入が6年置きに延期された様に地球の自転速度の変化が最近の10年間で大幅に変動しているので、「時間学者」にとって悩みの種となっている。
宇宙の調和的構造が、等速・規則運動や美しい音楽のハーモニーを産んでいるというのは、実は、「唯識」の「幻想」に過ぎないのである。
写真は、ハンガリー切手
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