自己と他者で認識されるユニバース2006/06/28 22:31

現在組み立てているロボット、相互コミュニケーションが出来る事を夢見ながら。

佛教大学四条センターで開催されているシリーズ「社会学とは何か」の第1回は、社会学の黎明期についての歴史的説明と、社会学の最も基本概念となる「社会的相互行為と社会関係」についての説明だった。


「社会的相互行為」とは、「人は、誰でも1人では、生きる事は出来ず、他者との相互関係の中で自己存在を認識する。」と言う性質からスタートしている。初めて出逢った人(赤の他人、仮にAさんとする。)は、自分が起こしたモーションに対してどの様な反応を返してくるのか予測出来ない。


この状態は、Aさんの状況も認識出来ていないが、「Aさんが自分をどうみているのか。」について、Aさんの反応・行動を通して知る事も出来ない。つまり、相互の自己と他社が認識出来ない状態となっている。しかし、試行錯誤で相互コミュニケーションを行う事によって、Aさんの反応が予測出来る様になる。


人間は、この様な相互認識行動を無数に繰り返す事で、ついに「一般化された他者」を認識する事が出来る様になると同時に「一般化された他者によって認められた自己の存在」を認識出来る様になってくる。この様な相互行為のパターン化が行われる中で、共通規範、シンボルコミュニケーション、価値の共有といった段階を経て、ついに自己が存在する社会の中での役割取得→役割認識を経て一定の役割期待を担う事になる。


最近、視覚・触覚・聴覚の知覚を持ち、それに対して一定の反応を示す、自律行動型のロボットが登場して来たが、この様なロボットの反応を見ていると、相互コミュニケーションが成立している様に感じられていまう。人間との相互コミュニケーションを通して、そのロボットの個性さえもが生まれると言う事である。


ロボットとの相互コミュニケーションは既に可能であり、今後の社会では、役割期待をロボットに担わす事が可能になる。シンボルコミュニケーションまでは、可能として、価値の共有の段階の実現までは、難しいが、人間とロボットとの相互コミュニケーションを通じて新しい世界が開ける可能性も示唆している。


横道に逸れてしまったが、この理論で前提となっているのは、①人は、自己のみで自己の存在を客観的に認識する事が出来ない。②人の認識世界は、相互認識を前提に存在し、相互認識無しでの自己の絶対世界は存在しないと言う点である。つまり、世界(ユニバース)は「相対世界」でしかあり得ないと言う点である。更に、その「相対世界」と言うのは、相互コミュニケーションの範囲内に成立すると言う点である。


地球から宇宙に広がるグローバルコミュニケーションでは、直接認識による相互コミュニケーションよりも、メディアが介在したコミュニケーションが可能になる中で、「世界(ユニバース)の中の自分」の相対世界の認識範囲は、情報技術の発展で飛躍的な拡大を見せたが、決して無限ではなくて限界がある。面白いのは、この様な相互コミュニケーションによる相互認識理論を仏教の世界観を説明する時に用いられている先生がいらっしゃることである。


佛教大学の通信スクーリングで、仏教の世界観、中央に巨大な山、須弥山が存在し、風輪・水輪・金輪と重なった上にあり、高さは八万由旬(ゆじゅん・途方も無い距離を示す)で、周囲には同心円状に七重の山が存在し、更に、その周囲には、人間が住む世界が存在していると言う荒唐無稽な世界観を説明された。


「先生は、本当にこの様な世界があると信じているのか。」との私の質問に対して、「私たちが世界と信じているのは、自己(相互)認識の届く限りの極狭い世界に過ぎない。私達の認識の外にも世界があり、仏陀が見ておられる。」と言った様な回答であっと思うが、例えば、私たちが認識している世界の外にも世界が広がっている信じる事が出来れば、その様な世界の存在について肯定的な見方も出来るであろうと言った事だろうと思う。


自己と他者のコミュニケーションを超えたユニバースが認識出来る様になると言う事は、「悟りに達した真の覚者のみ。」と言う事になる。人智を超えた世界の存在認める事、これがすなわち、宗教と言う事なのか。私には、信じがたい事だと思う。

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